アトミクラブ
篠原監督を偲んで



<篠原義雄名誉監督が去る3月12日に逝去されました>

 篠原監督が3月12日午後3時24分に永眠されました。享年74歳という若すぎる旅立ちでした。 篠原義雄さんのご逝去を悼み、クラブとして謹んでお悔やみ申し上げますとともに心よりご冥福をお祈りいたします。
 いつまでもお元気でいてくださると思っておりましたので、とても残念です。篠原監督は数年前にパーキンソン病を発症し、以来、病と闘い続けてきました。監督のご子息の賢一さんの話では昨年12月に脱水症状と感染症の疑いで病院に入院をしたところ、末期の膵臓がんが見つかり、サクラを見るのは難しいと診断を受けていたそうです。2月の末に重篤の状態になりましたが、持ち前の体力で2週間堪えて頑張ってきたようです。
 今回、コロナウイルスのこともあり、葬儀は家族のみで執り行われました。 後日、篠原家と相談の上、コロナ禍が落ち着いた後に「お別れの会」として旧知の皆様とお見送りしたいと思います。日程など決まりましたら、またその時にご案内させていただきます。

篠原監督の逝去の報を受けて、たくさんの方からメッセージや追悼のお言葉をお寄せいただきました。次項に掲載させていただきました。(以下、原文ママ)
2020年3月


篠原監督のご親族の皆様へ 追悼文
吉木稔朗

 アトミクラブで監督(といつも呼んでいたので今回もそう呼ばせてください)にお世話になり20年近く過ぎました。35周年パーティのときにお顔を拝見できたのが最後となりましたが、今思えば「会えて少しですがお話しできてよかった」という気持ちです。
 2014年に入ったころだったかと思います。監督から「ヨシキさん相談があるんだけど」と話しかけて来られました。「自分のマラソン人生の集大成として資料を集めて原稿を書いたけど、これを本にできないかな」という話でした。
 頂いた原稿や資料を見させていただき、かなり辛口な感想を述べたと思います。本にするならきちんと向かい合わなければならないからです。
 そうそう紹介が遅くなりましたが、私は出版社をやっており、いわば本を出すプロ編集者です。ですから「すごいですね」とか「よく調べましたね、感心しますよ」などという言葉を出しませんでした。とはいえ実際の原稿の内容はとても深いもので、なかなかここまで踏み込んで書ける人はいないと思いました。文章の端々に監督のまじめな実直な性格がちりばめられていています。
 監督にお話ししたのはタイトルでした。「サブスリーを目指す女性ランナー」これが監督の考えていた本のタイトルでした。
 サブスリーとはマラソンを3時間以内で走ることをいい、速いランナーの証しともいえるタイムです。 「サブスリーの女性って全国に何人いますか。恐らく500人もいませんよ。その女性が全員読んだとしても500冊ですよ。もう少し裾野を広げましょう」「それに本の構成がまず用語解説から。これでは本を手に取ったときに読む意欲がなくなりますよ」と。 いい本を作るために遠慮なく言わせてもらいました。そこでタイトルを「マラソンを走り切る技術」としてサブタイトルに、「3時間半からサブスリーを目指す女性ランナー、サブスリーから2時間半を目指す男性ランナー」としました。
 著作権の問題があり写真は撮り直し。ストレッチの写真の背景が商店街の看板が写るなど生活感が溢れていたのでそれも撮り直し。
 アトミクラブの女性3人に協力をお願いして撮影。走るフォームもアトミクラブのメンバーです。 こうして構成は出来上がりましたが、これは研究論文ではないのでもう少し何か欲しいと思いました。食事で言えばメインディッシュの他にサラダに相当する部分です。
 そこで考えたのが「コラム」です。
 監督にしか書けないエピソードなどをコラムとして書いてはどうかと提案しました。コラムは10篇ほどになりました。この追悼文を書くにあたり、コラムを読み返しました。監督らしい誠実な人柄がよく出ているなと改めて感じさせられました。
 コラムに出てくる谷川真理さんとはときたま食事をしますが、彼女はアトミクラブのことや監督との思い出など話してくれます。
 ご家族の皆さんも是非この本の本文はともかくコラムは読んでほしいなと思います。監督とランニング。そしてアトミクラブとのかかわり。ご家族の知っている篠原義雄のもう一面が見えると思います。
 監督、本当に残念でたまりませんが安らかにお休みください。御恩は忘れません。

篠原さんへ
富張光夫

 篠原さんとは「みすじクラブ」からご一緒させていただき、いつも速い人だなと羨ましく思っておりました。年代が高くなってのロードレースで優勝、日体大の記録会にも何度も挑戦しすごかったです。
 思い出と言えば篠原さんが土曜日に練習している時に、私が車で営業中、何回かお会いした際、練習を中断させて話をさせていただきました。その時に快く応対してくれたことを思い出し、いまでもうれしく思っております。
 息子の裕紀も自分のレースの他、高校生、中学生をみています。
 これもアトミクラブのおかげと感謝しています。
 心からご冥福をお祈りいたします。

篠原監督との出会い
梨本忠三

 私と篠原監督との出会いは品川区の陸上競技大会です。おそらく1981年位のことです。まだアトミクラブが結成される前で「東京みすじクラブ」のメンバーや浅木さん、大塚さんらと16分前半で競っていたメンバーが参加した大会でした。
 篠原監督がサッカーパンツに黒のビジネスソックス姿で現れたのは1500m決勝です。結果は篠原監督が残り400m付近からの猛烈なスパートにより大差をつけての優勝でした。私も後塵を拝した一人でした。
 後でお話をお伺いすると長期の海外滞在から帰国して間もないとのことで、学生時代に1500mを走っておられたとのことです。篠原監督の当時の年齢は36歳位だったかと思います。まだまだ若く走る情熱に溢れていました。
 それからみすじクラブのメンバーやハートブレークの前身である青東クラブのメンバーと合宿や駅伝に一緒に参加しました。そんな中でみすじクラブの運営方針(入会の壁)に疑問を持ち始めた私と篠原監督、山本さんと参加した若潮マラソンの前日の宿で「自由な雰囲気のクラブチームを作ろう」と言う話が持ち上がりました。
 その後、びわ湖毎日マラソンの会場に向かう電車待ちの間に私が作成した「アトミクラブの基本的な考え方」を篠原監督に見ていただき、意見を反映して出来上がったのがホームページトップにある「アトミクラブのご案内」の原形です。
 その後、何人かのメンバーに声をかけて東京体育館に併設された300mのサブトラックで練習を開始したのが発足当時のアトミクラブです。それから3か月もしないうちに前述のみすじクラブで練習していた関田さんが入会を申し出て篠原監督が気持ち良く受け入れて下さいました。最初は数人で始めた練習会でしたが、一人、二人と増えて、発足から2年もしないうちに20人を超える集団になりました。
 トラックレース、ロードレース、フルマラソン、駅伝等多くのレースに一緒に参加しました。原宿合宿、富士見高原合宿、西伊豆松崎合宿、福島広野町合宿等、篠原監督の人柄か、多くのメンバーが家族同様に楽しく練習し、楽しく飲み食いしました。
 以来、多くの楽しい思い出を残すことができました。
 篠原さん、ありがとうございました。

「カントク」の背中   ― 追悼 篠原義雄監督 ―
関田善作

 篠原義雄監督の訃報が届きました。まだ74歳という若すぎる死に、 私の中では、いまもお亡くなりになったという実感はなく気持ちの整理がつきません。
 篠原さんはここ4,5年、難病と謂われるパーキンソン病を発症し、闘病の日々だったとお聞きしました。 家にいらしてもアトミのことを絶えず気にかけていたとも。

 …篠原さん(※)、長い闘病生活の後でのお旅立ちです。
  しばらくは闘病の疲れを癒し、ゆっくり体を休めてからお旅立ちください …

  (※ 以降、篠原さんを「カントク」と書きます)

 私が「カントク」と関わりを持ったのは昭和も後半の57年頃(1982年)だったと思います。 アトミクラブが誕生するおよそ2年くらい前です。 「みすじクラブ」というアトミクラブの誕生に影響を与えたクラブで知り合い、少しの間ですが一緒に練習をしたのがきっかけでした。 「カントク」は私より5歳ほど年上でしたが、スピードとパワーは当時から健在で、 自分より10歳も20歳も年下の有望ランナーを見つけては走力を競いあっていました。 以来、私は37,8年に亘り、「カントク」の背中を見て、アトミクラブの練習会や合宿、駅伝、レース、 イベント等に一緒に参加させていただきました。
 ふつう「監督」と謂うと、指導者、管理者と感じるかもしれませんが、 「カントク」のそれは、それだけではありません。 篠原さんのお人柄か、いつの間にか「カントク」という愛称でメンバーから呼ばれるようになりました 。誰からも「篠原さん」ではなく「カントク」と呼ばれ慕われてきました。
 がっちりした体躯、大きな背中がみんなを引っ張っていく。 その走る後ろ姿を見ながら、今日まで我々はついてきました。 アトミのメンバーがどんなに増えても、家族のように楽しい関係のまま変わらずに走る集団であるのは、 「カントク」の背中が「こうやってやろうよ」と示してくださった結果ではないでしょうか。

 「カントク」からは走ることやそれ以外にもいろいろなことを学びました。 ここにこれまでの「カントク」のよく話していた言葉の中から記憶にある、そのいくつかを挙げてみます。
ランニングは年齢や男女差、記録のレベルに関係なく意志さえあれば、誰でも自分でその時々に応じて夢や目標を持って挑戦できる。
夢や目標なしでは記録は向上しない。
一生懸命やっていればきっと誰かが見てくれている。慌てることも腐ることもない。
走るのがいくら速くても評価はしない。会社や家庭、周りの人たちと社会人としてしっかり調和してはじめて評価される人間といえる。
自分だけが走るのではなく、走れる環境を作ってくれる家族に感謝し、その家族を一番大切にしなくてはいけない。
けっして人を非難したり、見下したりしない。だれでも欠点や問題はあるのだから。
いつも鷹揚に構え、けっして小さい事にはこだわらない。つねに大局を見ること。
以上、簡単ですが、「カントク」の言葉や背中から学んできたことです。

 「カントク」は60代も半ばを過ぎた頃、よく言っていました。 「70歳になったら仕事を辞め、走る時間が取れることを今からとても楽しみにしている」と。 残念なのは70歳になるかならない頃に難病を発症し、日々、病との闘いになったことでした。
 それでも走る気持ちは、一度も切らしたことがなく家の周りをジョグしたり 、ウォーキングをしたりしてクラブの練習へ復帰することを目指していました。
 いまから5年くらい前のことです。代々木公園の練習会に姿を見せ、自分は走らないにもかかわらず、 すこし引きずる足を庇いながら、みんなが走る様子を見守ってくれました。 その時だけ「カントク」の背中がほんの少し小さく見えたように感じました。
 「カントク」には長い間、お世話になりました。ほんとうにありがとうございました。 これからは先に天国で待っているアトミの面々と声をかけあってまた楽しく走っていかれることを心より願っています。 そしてみんなで我々を見守ってください。
   我々もカントクのご遺志を継いでこれからも元気に頑張っていきます。さようなら。

ご連絡ありがとうございます。
昨年35周年でお会いした時も、記憶の監督より弱っていらして驚きましたがまさかとしか思えません。
後日お別れの会があるとは言え、新型コロナのせいでお通夜やお葬式に伺えないのがとても残念です。
監督のご冥福をお祈り申し上げます。
松田由子

悲しすぎます。35周年が最後になったのですね。ご冥福をお祈りします。
吉木稔朗

篠原様 (毛塚さんからご子息 篠原賢一さんへ)
このたびは、まことにご愁傷様でございます。心からお悔やみ申し上げます。
お見舞いも行けず申し訳ありません。
毛塚敏男

篠原賢一様 (関田からご子息 篠原賢一さんへ)
この度はまことにご愁傷さまでございます。
お父様のご逝去を悼み、心よりお悔やみ申し上げます。
賢一様はもちろんですが、篠原さんの奥様にもお力落としの無いようよろしくお伝えください。
「文面ではあまり痛みを感じることなく穏やかに旅立たれた」とのこと、何よりでございました。重篤な症状とお聞きしてから毎日、心配しておりました。ついにこの時がきたかという思いです。お見舞いにも行かずにただただご連絡をいただくことになってしまったこと、悔やまれます。
取りあえずご連絡まで
関田善作

ご連絡ありがとうございます。
伝言板、確認致しました。ただただ、驚くばかりで言葉がありません。
家族葬の件、承知いたしました。
コロナの影響が、こんなところにも出るなんて・・・悲しいです。
昨年の35周年で最後にお会いできた事が今となっては、良かったと思える事だけが救いです。
山内朱実

ご連絡ありがとうございます。ご冥福をお祈りします。
中澤かおる

お知らせありがとうございました。
非常に驚きました。悲しいことですが、監督の記憶はそのまま頭と心に残っています。
お通夜、お葬式の件も承知しました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
飯田隆一

ご連絡ありがとうございます。
篠原監督のご冥福をお祈り申し上げます。
小林滋弥

ご連絡ありがとうございます。渡村です。
吉木さん、ちかちゃんからも連絡いただいておりましたがとても悲しくショックでした。
心よりご冥福をお祈りします。
渡村恵子

ご連絡ありがとうございました。
ただただ驚くばかりです。
昨年の35周年記念総会でお会いできて、お元気だなと思っていました。
8年前にアトミクラブに入った当初、キロ4のインターバルで一緒に走っていて、「すごく速い"老人"がいるもんだな。すごいな」と思っていました。
3−4年前から出てこられなくなったので、どうしているのかなと心配していました。
まさか、パーキンソン、すい臓がんとは、絶句するばかりです。
ご冥福をお祈りいたします。
偲ぶ会など、またご連絡をお願いいたします。
相馬 勝

お知らせいただきありがとうございます。
コロナ騒ぎで監督がどうされているかと気になっていたところでした。
残念ですが、監督と35周年のときに久しぶりにお会いできたことは本当によかったと思っています。
せめて私たちはコロナに負けずに元気に過ごして、監督のお別れの会が開催できる頃にはみんなで監督の思い出を語り合いたいですね。
ご冥福をお祈りいたします。
モコ(田村智子)

お知らせ、ありがとうございます。
優しい笑顔とご指導を思い出しながら、監督のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

星野恭子

突然の悲しいお知らせですね、
篠原さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
お別れの会には出席したいと思います。
コロナウイルスのこともあり、日取りは未定でしょうが、ご連絡下さい。
永岡信昭

ご連絡ありがとうございます。
本当に残念です。「お別れの会」宜しくお願い致します。
遠藤 昌志

篠原監督のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
あまりの突然のことで・・・
ご連絡ありがとうございます。
佐々木月絵

連絡遅くなりましてすみません。連絡ありがとうございました。
驚きです!また本当に残念です。また大事な人がこの世を去ってしまったんですね。
篠原監督は走る情熱を示し気遣いの出来る監督だったと思います。
自分自身ではいろいろな思い出が蘇りました。
改めて謹んでお悔やみ申し上げます。
直近、私自身昨年の10月流山で右アキレス腱を痛めてから思うように練習が出来ずストレスになっております。中々治らず長引いています。
新 長太郎

アトミの山川です。お世話になっております。
篠原監督の訃報、ありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
山本勇次郎さん、山口正春さん、根本渉さん、中井明さん、富田さん、野口さん、稲川さんにも私より連絡させていただきました。
山本さんからは「ただ驚きの一言です、ご冥福をお祈りします。長い間お疲れ様です。と添えたいと思います」とのお返事をいただいております。
山川 寛


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