アトミクラブ
やった〜 十数年ぶりのサブスリー 加賀耕三郎さん

 ジョギングを始めて20年位経っただろうか!20代の後半に体を動かすことが好きで、 何気なく始めたジョギングも人でいうなら成人式を迎えた。 そのジョギングも最初は一人で走っていたが職場にランニングクラブがあり、ある人に誘われてその仲間に加わった。 当時、そのクラブの仲間たちと青梅マラソンの30kに出たことは何回かあるが、フルマラソンには一度も出場したことがなかった。
 ある日、先輩に誘われてフルマラソンを勧められ、初めてフルを走ることになった。 初めて走ったフルは、ゴールまでが非常に遠く長く感じられた。 その時のタイムは3時間14分台で、早いのか遅いのかよりもその長い道のりを走りきった充実感で大満足であった。
 それからの練習はフルという目標も視野に入れながらの練習になった。 そんな中、河口湖マラソンで努力の甲斐もあり、初めて3時間を切ることができサブスリーを達成した。 タイムは2時間58分台であった。その時の感動は、今でも忘れない。それまで、一生懸命育ててくれた親にも感謝した。 それからサブスリーは、勝田、筑波等を入れて5〜6回程記録した。 その中での自己記録は今の長野マラソンの前身の大会である信毎マラソンの2時間53分台である。 この大会は、関門が厳しく最初からペースを上げていかざるを得ず、5kの通過は19分台だったように思う。 そのプレッシャーが結果的に私に幸いした。この時、ちょうど30歳。 今からみればこの頃の2〜3年前後が、ランニングに一番燃えていた時期のように思う。

 それから十数年の歳月が流れた。やる気の強弱はその年毎によって違っていたが、細々とではあるがこれまで何とかランニングを続けてこられた。 転機は訪れた。現在の佐倉に移り住んだ時、多少の時間の余裕が取れるようになったことに加え、たまたま地元の走友会の募集のチラシを見た時、走ってみるかという気持ちになった。 会に入りたての頃は仲間に随分と置いていかれ情けない思いもしたが、そこから少しずつ頑張り、持ち前の負けず嫌いも手伝って仲間との距離も縮まってきた。 それと共に意欲が出てきて、スピードを上げるにはどのような練習をすればいいかを考えていた時、そういえばアトミクラブがあると思いたった。
 以前アトミクラブにお世話になった時は、あの瀬古選手が、SBの中村監督に神宮外苑で指導を受けて走っていた。 その時は、練習に参加したが仲間の速さに圧倒されて長続きはしなかった。 アトミは当時から効率のよい練習(インターバル)をしていた。やる気があれば自分自身も伸びる可能性があるかなと思っていた。 ここ数年、インターネットの普及等で人がすごく増えたが、活気は昔も今も変わらない。 その集団に再び仲間入りしたおかげで最近は張り合うことを覚え、共に練習、合宿等で汗をかき、時にはライバル心をむきだしにし頑張った。
 その甲斐あってか、フルで3時間に近いタイムで走れるようになってきた。 ただ、そこから3時間10分を切るようなタイムになってからのあと一歩のあと押しができずに悩んでいた。

 そこで又、考えた。 そうだ、自己新を出した信毎マラソンは、相当のプレッシャーの中で走ったんだと。ダメで元々と、あえてレベルの高い大会に出て自分を鼓舞してみようと。 その第一弾として出たのが、昨年暮れの防府マラソンだ。 この大会は、以前は、1〜2年以内にサブスリーの記録を持っていないと出られないようであったが、最近は、それが見直されサブスリーへの意欲がある人にも門戸を開くようになった。 ただ、出場するとしても途中関門が厳しく、22、1kの関門では1時間30分切りが要求される。 この関門を通過するには、5kを20分30秒のペースで走らなくてはいけなく、今の自分の実力では非常に厳しいものがあった。 ちなみに私の最近のハーフマラソンの成績は、1時間28分だ。そこからすれば大会はフルだし絶望感も見えていた。
 そんな中で迎えた大会当日(前日は降雪もあり、中止かとも思われたが、開催の運びとなった)スタートしてから速い人の波に乗り、自分のペースは最低限失わずに行こうと思い走った。 5kは、20分前後のペースで通過(速すぎるが先のことを思うとしょうがない)10k、15kもそのペースがなんとか保たれ、それから少し苦しくなってきたが、中間点位までは今のペースを維持しようと周りの仲間に離されまいと頑張った。 20kまでは、キロ4分ペースが続いたが、いよいよ苦しくなってきた。それでも関門までは、と思い頑張り制限時間から約2分の余裕があった。 ただ気持ちはここで終っていた。それでも収容バスが迎えに来るまで走ろうと集団にごぼう抜きされながらも、だましだまし走った。 後方の集団がとぎれがちになった頃はあまり抜かれなくなったが、いよいよバスに乗るのか(楽になれるな)と思っていたが、そのころから少しずつ元気が回復してきて、もう少し頑張ってみるかという気持ちになってきた。 沿道の声援の中で中年のおじさんが選手に「前へ前へ」としきりに声を掛けていたが、これは気持ちの上でも走る上でも基本中の基本ですごく共感できた。 よし、頑張ろう。気持ちは大事だ。(特にメンタル面が重要な要素を持つマラソンでは) 30k通過は2時間2〜3分。 過去に青梅マラソンに出た時もこんなにいい記録では走れていない。このままだとひょっとしたら完走できるかも、と思った最後の関門の35kであと十数秒足りなく、残念ながら涙を呑んでしまうことになってしまった。 一時は乗ろうと思っていた待望のバス?人間の心はその時々で変わります。でも、ここまでよく頑張ったと自分を誉め讃えると同時に次は雪辱しようという気持ちに切り替えた。

 年が明け、迎えたサンスポ千葉マリンマラソン(ハーフ)は降雪の為あえなく中止となって、現在のハーフの実力を試すことができなかった。 その翌月(2月)に出た延岡西日本マラソンは、中国、九州勢の強豪がひしめくなかで、少し気おくれするところもあったが、逆にやりがいも感じられた。 延岡といえば旭化成のお膝元で、あの宗監督もスタート前には近くにいた。 この大会は、チップなどによる計測ではなく5k毎に高校生などが走りながら選手をチェックする今どきにしては、珍しい大会だなと思った。 ゴール後には、やはり高校生がゴールした選手一人一人にバスタオルをかけてくれ、ゴールした安堵感と共に一流選手の仲間入りをさせてもらえた気持ちになった。 結果は、残り1、5kで頑張れば3時間切れるよと声を掛けてくれる人がいたので最後頑張ったが、あと一つのところで3時間を切ることが出来なかった。 タイムは、3時間10秒だった。

 そして、迎えた今年の3月12日(日)韓国(ソウル)でアトミの仲間と出場した東亜国際マラソン(韓国読みは、マラトン)スタート前の気温は、−2〜3℃で非常に肌寒かった。 去年の大会もそうだったので、少しは寒さの免疫があった為(こんなものさと思っていた)Kさんにもらったビニール袋を上半身にかぶり、スタート直前にそれを脱ぎ捨て、号砲一発スタートした。 実は、今回は同行したCさんから走る上で貴重なアドバイスを受けていた。5kまでまず抑えて行き15kまでは、周りに抜かれても焦らず抑えて走り、中間点位からペースが上がるようだったら行けばいいというものであった。 このアドバイス通り今回は走ってみようと最初から決めていた。(このアドバイスは行きの飛行機で隣り合わせたCさんと話をしていて、いいなと思っていた。)
 今回は、そのアドバイス通りに走ってみた。 5k、10kと周りのペースにとらわれず走った。 15k位になっても5kを21分前後と安定したペースは崩れなかったがここら辺でトイレに行きたくなってしまった。 トイレに行くならなるべくロスのない所で済まそうと場所を探したが、なかなかいい場所が見つからない。 そういった中、公衆トイレらしき物があったので、あそこだと思って歩み寄ったがそこはトイレはトイレだが、コイン式のトイレでコインを入れないと扉が開かない仕組みになっていた。 残念と思って視線を気にしながら、近くの場所を瞬時に捜してもたもたしておれないと用を済ませてコースに戻った。
 この大会に出場するのは、今年で3回目だが3回とも15kから20k付近でトイレに行っている。 寒いのであまり汗をかかないせいだろうか?国内の大会ではあまりないことだが(前夜の飲みすぎか?)この時点でサブスリーには、黄信号がともった。 だが、せっかく出場した以上最後まで頑張らなくてはと思い直し、コースの前方を見るとそこにはアドバルーンを小型化した様な赤い風船が風に乗って大きく前方に揺らいでいた。 何だろうと思って見るとそれは、3時間のペースメーカーが率いる大集団だった。 そうだこの集団にとりあえず追いつこうと思ってひたすら、あとを追った。 トイレに一度寄っているので又ノッチを上げ直さなくてはならなく、しばらくはきつい我慢比べの時間帯であった。 中間点過ぎるまでは、その集団に並ぶのがやっとだった。それから、さらに粘り、段々と調子が出てきて、自然と自分の走りが出来るようになった。
 ここからは、Cさんのアドバイス通り、ペースが上がるようだったら上げていこうという走りになった。 30k、35kを過ぎてもガタンとペースは落ちず、前回の大会で地元韓国の人がやっていたパフォーマンスをここでやってみようと思った。 沿道で縦長の長方形の風船を持った十数名の少年達がいる。 その近くに寄って大きな声でファイテー(ファイトの韓国読み)をして手を挙げて通り抜けるというパフォーマンスだ。 韓国の人達の応援は熱い!このパフォーマンスで元気をもらい、オリンピックスタジアムにつながる大橋を下るときには、追い風にもあと押しされ一気にテンションが上がってきた。 競技場直前では、途中で自分のレースを打ち切って、応援に回ってくれたCさんが、3時間切れるよと励ましてくれて、最後まで気を抜かずに行こうと再度、気を引き締めてゴールに向かった。
 いよいよ競技場に入り、余力をあますことなくゴールを駆け抜けた。手持ちのタイムは、2時間56分台だった。 やった〜久々のサブスリーだ!! ここまでの道のりは長かったが、人間我慢すればいつかは希望の見える時が来るなと思った。 その瞬間感動が、じわっと体に伝わり近くの人と喜び、健闘を讃えあった。
 最後に今回のツアーで非常にお世話になったK夫妻、M夫妻並びに同行のCさん、Kさん、Sさんその他大勢の方々ありがとうございました。 また、東亜マラソンに出場されたことのないアトミの皆さん! 東亜マラソンは、今回女子で優勝した中国の選手の走り(2時間19分台後半)*Qちゃん、渋井陽子に次ぐ記録からもわかるように記録の狙える大会だと思います。加えて、韓国の人々の温かみと文化、食べ物など魅力も満載です。 韓国は近い国で時差もなく、国内旅行の感覚でしかも安く行けます。 ただ、3月にしては、ここ1、2回の大会は寒い日が続いていますが、来年はまずまずの気温となることを期待して・・・。

 以上、このつたない文章を読んで興味をもたれた方は、我々、東亜マラソン参加者に是非声をお掛け下さい! 
その魅力をお話ししたいと思います。    

===完===
アトミクラブ 加賀 耕三郎

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