アトミクラブ
I LOVE MARATHON 篠原昭二さん

風景カット  アトミの皆さん、ランニングや仕事に毎日全力で取り組んでいらしゃるることと思います。 アトミの皆さんに知り合えて早や8ヵ月、この年齢(36才)こして自己記録が次々として出て、 毎日走るのが楽しくて仕方がない今日この頃です。

 実は私、28才の時に、これで自分の陸上競技人生の最後と決めて走ったボストンマラソン(1988年)で、 当時の自己記録2時間45分03秒を出して大満足して陸上からスパッと足を洗いました。
当時の別大参加標準まであと3秒と迫りましが、もう十分に納得して「これからは仕事ー途ににがんばろう」と思い走ることをやめてしまいました。 それから4年6ヵ月ものあいだほとんと走ることをしませんでした。

 しかし、以前より走ることを通じて友人になったローラン君(ベルギー出身5000mm13分台、 10000m28分台)が私に走ることを再開するよう強く勧めてくれていました。 私は27才の時に1年間アメリカのアイオワ州立大学に留学していたので、そのとき彼と友人になりました。 ローラン君と私とでは実力に天と他との差があったのです、なぜか2人とも気があっていて、 よく一緒に走ったものでした。 彼は私が日本に帰国して走るのるやめてしまったと知ると非常に残念がって、毎月のように手紙や電話で「昭二、 もう一回走ることを始めろよ。 走っていても仕事は立派にできるぞ」といわれ続けていたのですが、 4年6ヵ月の間、気持ちが切れてしまってて走れませんでした。

 私事で恐箱ですが、当時私は結婚し、良い家庭生活を築こうと努力していたつもりだったのですが、 妻とはどうしてもうまくやっていけず、離婚は決定的で暗い気持ちで毎日を過ごしていました。 友人にも誰にも会いたくない心境だったのです。

 そんなある日(確か1992年の11月初旬だったと思いますが・・・) 夜中にニューヨークシテイマラソンの中継をテしビで見ていて、 かって自分もこのしースを走ったことを思い出し、一人感傷にひたりながら「マラソンは自分にとて何だったんだろう」などと考えていました。 「もう走ったことなんて遠い昔の出来事だ」などと思っていました。

 数日後、私のもとに航空便が届きました。 「何だろう」と開けてみるとマラソンシューズとロンドンマラソンのエントリーカードが入っていました。 差出人はローラン君で「もう一度お前の走っているすがたをオレに見せてくれ。 元気出せよ。」と書いたメモがありました。「そんなに自分のことを思ってくれるのか」と感激し、 「よし、男ならもう一度走ってみよう」と決心した私は4年6ヵ月ぶりにマラソンシューズをはいて、 一人で5Kのタイムトライアルをやってみました。 「まあ20分では走れるだろうと」とタカをくくっていたら大間違いで全力で走ったにもかかわらず、 なんと25分もかかる有り様でした。 「俺の力はこんなに落ちていたのか」とショックでした。 ロンドンマラソンまであと5ヵ月しかない。 マラソンを走るからには必ずサブスリーで走りたいと思いました。 しかし全盛期より8Kgも増えてしまった体重、 昔インターバルのやり過ぎで造血作用が間に合わない病気になって苦しんだ体はスピード練習をまったく拒否してしまって受けつけません。 仕方なく一人でLSDや持久走中心の卜しーニングを5ヵ月行ない、 ロンドンマソンの1週間前に走た5Kレースではぎりぎり17分後半が出せて、 なんとか走れそうだ」という気になりました。

 ロンドンの結果は2時間56分32秒で、なんとかサブスリーは達成したのですが、 ゴール後はもうへ卜へ卜で、自己ベストの2時間45分がとてつもなく速く思え、 もう2度とあの記録は破れまいと強く感じたものです。

 こんな具合に走りを再会したわけですが、 走り始めてみると若かりし頃?の自己ベストをなんとしても更新したい気持にかられて黙々と卜レーニングを続けて2年間で11回のフルマラソソに挑戦、 いずれも完走したのでが昨年(95年)3月の佐倉マラソンの2時間47分台が最高でどうしても自己ベストを破れませんでした。

 昨年9月に走友の牛木さんや加藤さん、 高橋玄太さんがアトミクラブの存在をおしえていただき、「気楽に参加してみないか」と誘ってもらいました。 最初はスピード練習と聞いただけでゾッしましたが、現状打破にはもうこれをやるしかないと覚悟を決めてアトミクラブの練習会に参加させてもらいました。

 実際に織田フィールドに来てみると、 実に色々な年代の個性あふれる方々がいて、それぞれの目標に向かって真面目に練習に取り組んでいる姿に心を打たれました。 練習会に参加させてらって約4ヵ月後の今年2月彩の国シティマラソンで実に7年10ヵ月ぶりに自己ベストを更新する2時間40分58秒が出てたいへん嬉しく思いました。 そして中4週で臨んだ3月の佐倉マラソンで少々つかれ気味にもかかわらず、 35Kmからまるでアトミクラブの皆さんが自分の背中を押してくれこように体が良く動き、 ついに40分の壁を破る2時間39分34秒を出すことかできました。

 もう一丁と思って走った4月のパリマラソンでは20Kまで女子のトップグループにつきながらも後半ガタガタと崩れて2時間57分台に終わってしまいました。 その他のレースでは5K、10K、20K、ハーフ、50Kと続々と自己ベストが出て嬉しくし思っています。 これもアトミの皆さんと知り合えて、一緒に練習させていただいたおかげだと皆さん一人一人に感謝したい気持ちでいっぱいです。

 しっかりとした走り込みの土台の上にスピード練習をやれば、体は壊れないということもこの年にしてわかりました。

 私はやはり【かけっこ】が好きです。 皆さんも同じでしよう。 もう死ぬまで【かけっこ】をやめられそうにありません。 これからもアトミの一員として立派なレースかできるよう頑張りたいです。 これからもご指導、ご鞭撻程、よろしくお願い申し上げます。

 事務局より一言
 篠原昭二さん、アトミ通信への寄稿どうもありがとうございました。 たいへん中身のある、そして篠原さんの【かけっこ】にだわる半生記として大変感動して読ませていただきました。 これからも自己記録の更新を目指して故障や病気などせずにみんなで頑張っていきましよう。                


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