アトミクラブ
3日間の湯沢合宿 中里綾介さん

 <高校のときを思い出すような>

 アトミの練習に来るようになって早くも7年目を迎え、湯沢合宿も今回で5回目の参加となったが、 意外にも前回(一昨年)までは土日1泊のみで金曜日から2泊したのは初めてだった。
 高校を卒業してから合宿を3日以上行っても、午前中だけポイント練習をやって午後はゆっくりJog、 又は長い距離をお昼を食べない形でゆ〜っくり50kmぐらい走り込むスタイルが主流となっている。 その中でこの合宿は午前も午後もきっちり走り、更に本数を多くこなすスピード練習を取り入れているので、 毎回かなり大事に取り組んでいる。 初めて3日間行けたことで、2日連続の2部練習、しかも3日連続のポイント練習で更に2日連続で本数が多いスピード練習ができた。 これほど中身が濃い合宿は高校のとき以来だった。
 とにかく腹八分でも全メニューをきっちりこなすことを重視した。
 初日の午前中は3日間のウォームアップ、普段ひとりでのJogが多い中、みんなでJogができるのはペースに関係なく楽しい。 去年の合宿には行けなかった分、湯沢に来られたことが嬉しく、金曜日だから人数も少なくて部活な雰囲気が楽しかった。
 午後の1000m×10本こそ、時差スタートを実施しても、終始自分のペースは自分で作る練習になってしまったが、 ここで前半2本ぐらい走っている感覚に対して「あれ?思ったより走れてない!」と思った人が多かったと思う。 普段ポイント練習がアトミ中心でそれ以外のJogなどもロードが多い人ほどそう思ったはずだ。
湯沢のトラックは織田Fのタータンとは違って土であり、更に冬場に雪が積もる影響か砂が浮いているのだ。 蹴ってもグリップが弱く進まない、僕も時々家の近くの土のトラックで練習するが、このトラックで前半苦戦したひとりだ。 しかし、言い換えれば条件が悪いということ。 ダウンJogをしながら三浦さんほか数人の方とは話したのだが、ということは、 織田に帰ったときに多少調子 が悪くてもこの土のトラックで走れたタイムくらいでなら走れる、ということになると思うのである。
 2日目午前中の400m×20本は土日組が加わり、人数も倍以上に。 赤間さん、片山さん、大友さんとグループを形成。 はっきり言ってひとりで引っ張り切れる本数ではありません。 赤間さんに協力していただきながら引っ張る形。 大友さんこそ前半途中できつくなってしまいましたが、それでも自分のペースで押していたし、 片山さんは最後まで着いてこられた分、赤間さんと3人の中で一番良い練習ができたと思う。
後半本数を積み重ねるうちに自分もきついけど、3人の集団でひとりでも欠けられると更にきつくなる。 だから後半は3人で20本行く、絶対ペースは落とさないけど、この2人も最後まで連れて行く! 悪い言い方をすれば2人を道連れに、良く言えば2人の力を借りて最後まで行くという気持ちになっていた。 20本目のリカバリーのJogを終えたときは自分がやりきったこと以上に、3人でゴールできたことに達成感を感じた。
 午後の20kmは午前中の疲れが取れない中での練習。 水分の取り方を間違えたか、ずっと軽い腹痛を抱えながらの走りになってしまった。 5kmまではコースを知らない人を引っ張る感じで行ったが、5kmで僕は給水を取らなかったので、そこからは自分のリズムで行った。 実は5km、15kmではリズムが大事なコースだから給水はほぼいつもしてない。 さすがに折り返しでは給水をしたが、量を多目に取ったためか腹痛は治まらない。 気持ちで押すしかない。 気持ち、高校のとき、この湯沢で5日間の合宿を行っていた。 その4日目のメニューが、午前に芝生で100m×100本、午後に競技場と大源太湖を往復する“こころの20kmタイムトライアル”。 今回は午前中400m×20本だったが、皆で声を掛け合って本数を重ねて走りきっていたことや、 前日に練習していること点では変わらない。 当時も20kmにもなれば後半は縦長になり、ひとり“こころ”で押すしかったことから、 懐かしい気持ちになり、当時のことを思い出しながら走った。

 <世代を超えた仲間〜先輩方から学んだもの>

 アトミの合宿は練習がスゴイことは言うまでもないのだが、 何と言っても夜の飲み会、特にこの合宿の2日目の夜はアツイ! ここで開催されるカラオケ大会は夜練習か(笑)と言わんばかりの盛り上がり。 みんな昼間走っているのにこのパワーの凄さには最初は物凄く驚いた。 老若男女を問わず盛り上がる、それは一見不思議な集団でもある。 今年は4曲ぐらい歌わせていただいたかな?でも今年の特徴は女性陣の盛り上げが例年以上に輝いていた気がします。 個人的に勝手に決めて良いのなら、MVPはみっちーさんこと釜池さんの『プレイバックパートU』、 新人賞にアトミのアイコこと中山さんの『夏祭り』、これしかないだろうと思います。
 カラオケの時にふと思ったことが、いつの間にファーストネームで呼ばれることが多くなり、 いつの間にかチームに溶け込んでいた、いったいそれはいつからだったかということ。
始めは仕事の後にも関わらず平然と夜の織田で走りだすチームの勢いみたいなものに圧倒されていた気がするし、 ただ先輩方についていくだけだったと思う。 気が付いたら練習では引っ張ったり声をかけたりするようになり、 練習以外のレースの打ち上げや合宿の飲み会では、 仕事をしながらいかに走る時間を作るか、とか、社会人としての生き方を吸収していた。 そこは大学4年間の競技生活がこのチームにあった自分にとって、 アトミは“キャンパス”であり、走ること以外にも学んだことが、 今仕事をしながらも記録を伸ばせているところに繋がっていることは確信している。
 合宿や駅伝でチーム最年少であることが長く続いていたが、ようやく自分より年下の方と練習することも多くなり、 中には学生の人も入って来るようになった。 このチーム育てられた者として負けたくない気持ちも当然あるが、同時に自分がアトミで学んできたものを、 今度は自分が伝えていく立場になってきたのだとも思う。 学生でこのチームに出会うことができた人には、できるだけ通い続けて先輩方からいろいろなことを吸収してほしい。 それは必ず数年で大きな武器となり財産となるはずだから。

 <伴走〜これからもアトミから>

 最終日に高橋勇市さんの伴走をした。 補足ではあるが視覚障害者の伴走である。 簡単に言えばナビのようなことをするのだが、当然相手より力量がなければ相手は全力で走れない。
スタート前、伊藤さんが勇市さんに「今日は飛ばせるよ!」と一言。 スタート直後、あのアップダウンの厳しいコースをアップもしていないにも関わらず1qを4分前後のペースで行く。 2日間練習した後のからだにはきつかった。
ただ、この日の練習に賭けていたと思うぐらいの気迫が伝わってきた。 自分も同じくらいのレベルの練習相手は多くないが、彼は力量がある伴走いなければ全力で走れない。
ある意味似たような悩みを持っていることがわかるだけに、きつくてもばてられなかった。 お互いコースをよく知っているためか、早めのナビができたし、時折自分のナビの前に勇市さんのからだが動いていて、 この人見えているのではないかと錯覚もした。 手が繋がっているため彼の方が動きが良いことも明らかにわかり、もはや伴走ではなく一緒にペース走をやっていて、 彼に引っ張ってもらっている感覚だった。もちろん勇市さんのフォームにアドバイスをしつつだったが、3周目に入ると自分の方に腕が振れて ないことがわかった。
きつくなると腕が振れなくなったり、抱え込んだりと悪い癖が出るが、伴走をしていればそれは相手に悪影響だ。 相手がしっかり走れるためにもフォームはきつくなっても乱してはならず、特に腕は真っ直ぐ大きく振り続けないといけない。 最近終盤のきついところでも腕が振れるようになったと言われることがあるのだが、 それは東京マラソンから何度か勇一さんの伴走をさせていただけたからかもしれない。
他にも伴走から得たものはあるが、もしアトミで走っていなかったら伴走の経験はできなかったと思う。 今回の腕振りのことは、勇市さんとの出会いがなければまずなかったに違いない。 最終日にこんなに良い感じに走れたのは自分でも初めてだった。

最後に、僕がアトミに来るようになったきっかけは大学入学時、大学の駅伝部の監督から「君は要らない。」と言われたことだ。 単純に当時の持ちタイムでは力不足だったのである。 その中でアトミに来て持ちタイムを聞かれ答えたら「(うちのチームに)欲しいな。」と言ってくれた。 そう言ってくれたのはモントブランの栗田さんだった。 その後、アトミでも駅伝にAチームで使ってくれた。 一度要らないと言われても、必要としてくれるチームがあったから腐らずに走り続けてこられたのだと思う。
長くなりましたが、これからもチームへの感謝の気持ちを忘れずに、走り続けていれば良いことあると信じてがんばります。

なかざとりょうすけ


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