アトミクラブ
27年、35年、そして70年
関田善作(入会1984年)


 早いものです。私が1949年(昭和24年)に生まれてからこの9月で70年になりました。その半分の35年がアトミクラブと共にあります。さらに言えば、クラブの会報である「アトミクラブ通信」を手書きで配信し始めてから、早27年になりました。
 私がアトミクラブ通信を書き始めたのは1992年の3月。たしか奥武蔵駅伝の結果報告や広野合宿の案内などを記したものと憶えがあります。
 それまで文章を書いたことなどなかった私が、なぜ会報など書き始めたかというと、少しずつクラブ員が増えていくなか、転勤で、結婚で、病気で、故郷へ帰るなど様々な事情で練習会に参加できない人に少しでも情報伝達することはできないか、また常時、アトミの練習会に参加しているメンバーにも共通の情報を発信し、共有できないかという気持ちが強くあったからです。通信をまとめるにあたっては時代や世相、季節、諸々の要素を意識し、何よりも現場主義で皆さんの活動を目の当たりして書くことを意識しました。
 それでも当初はイベントと近況を伝えるだけの乏しい内容でしたが、駅伝の結果や参加選手の活躍、個人参加の記録などを聞けるたびに取り込んでいきました。また合宿などのイベントの様子も報告として伝えるようにし、個人の大会参加のコメントや合宿などの印象記、金井康さん執筆による「Kさんのランナーズ四字熟語」、伊藤真さんから報告のある大会参加記録などで通信が充実していきました。「あれも入れたい」「これも入れたい」――そうこうしている内に27年という月日があっという間に経ってしまいました。「
 発信当時はまだパソコンが普及していない頃でインターネットなど考えにも及びませんでした。毎回(2カ月に1回)、手書きで清書し、プリントしたものをメンバーに届く事を想像しながら封入する作業は時間がかかりましたが、楽しいものでした。
 そのうち、メンバーの飛躍的な増大に伴い、今は青森県おいらせ町にいる袴田悦子さん(えっちゃん)が発送作業を一手に引き受けてくれることになりました。多い時でたぶん500人近い方に郵送していたので、袴田さんのお力なしには「アトミクラブ通信」の定期配信はありえませんでした。私の方は「通信」をまとめることと印刷に注力する事ができ、本当に助かりました。
 えっちゃんの発送作業はおよそ5年位前まで十数年間続いたでしょうか。いまもあの時に"あの縁の下の力持ち"がいなければ…と思うと感謝の気持ちでいっぱいです。いまはその"縁の下の力持ち役"を毛塚敏男さんにしっかり引き継いでもらっています。
 時代は手書きからワープロ、パソコンへと変わり、書いたものがすぐにネットを通じて配信できる時代になりました。今あるホームページに掲載するスタイルはこういった、いくつかの変遷を経てのことになります。「アトミクラブ通信」はいまクラブのホームページの中へ引っ越しています。掲載にあたっては結成メンバーである梨本忠三さんに多大なお力を借りています。忠さん、いつもホームページへの転載をありがとうございます。
 皆様、お時間がありましたら、たまには「アトミクラブ通信」を覗きに来てください。
 さて、アトミクラブが1984年4月に結成してから今年4月で丸35年になりました。
 8月4日に「結成35年を祝う会」が盛大に開かれました。当日は懐かしい方、新しく入られた方などとゆっくりお話がしたかったのですが、舞台かたわらでゲストのスピーチやイベントを見聞きしているうちにあっという間に会は終わってしまいました。当日の会は「アトミクラブの35年の軌跡を辿る」をテーマに式次第どおり行われました。自分で云うのもなんですが、会はとてもよかったと思いました。
 とはいえ、あとで心残りなことがありました。出席された皆さんともっと飲んだりおしゃべりしたりしたかったという気持ちです。ですが、その心残りは日々の練習会やこれからの様々なイベントで解消できるでしょう。35年間のクラブの思い出や数々の功績、活躍を語るにはこの紙面が何百枚あっても書き足りないと思います。まずは次の40年、50年の節目に立ち会えることを目標に頑張っていきます
 自分の事で恐縮ですが、この9月で人生の節目である70歳という年齢を迎えて何よりも、今も元気にこの歳までまだ走れていることに感謝しております。私が元気で走り続けていられる理由は簡単です。アトミクラブの仲間という、いつも一緒に切磋琢磨し、嬉しいにつけ、楽しいにつけ、苦しいにつけ、悲しいにつけ、いつも元気をくれる存在があるからです。
 おそらく、これからも皆さんから元気をいただきながら走り続けていくことになるでしょう。


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