アトミクラブ
中村正二を想う
吉木稔朗(入会1999年)

教訓――
 1月、とりわけ寒い日だった。織田フィールドに繰り出すもあまりの寒さで、上に着ていたジャージを脱ぐのが辛かった。その日のメニューはペース走10km。キロ4分のクラスに入ったが寒さで体は動かず、疲労も残っていたので脚が動かない。ボクはペースを落として戦線離脱を試みようと思った。
 そのとき背後から呼吸を切らして必死についてくるランナーに気が付いた。後ろを振り向くことはないのでそれが誰だか分からないけど、必死についてきていた。「ボクよりもっと辛いはずなのに頑張っている。戦線離脱は後ろの人に申し訳ない」と思い直して背中を押されながら走り切った。
 ゴール後、あんなに寒かったのに汗を垂らし両手を膝に置いて息を切らしながら振り向くと、同じような格好で息を切らしているランナーが目についた。中村正二君(通称「中ちゃん」)だった。激しい呼吸でボクの背中を押してくれていたのだ。彼の頑張りには敬服したし、そのお陰でボクはメニューをこなせた。二人で「軽くどこかで」、という話になり、地元飲みに決めた。もう1人高橋ワカが合流して吉祥寺の駅から寒さにさらされないということで一番近い居酒屋に入り込んだ。
 中ちゃんは1カ月ほど前にホノルルマラソンを走り、次のレースは千葉マリンマラソンのハーフだった。そして3月にはソウルで念願のサブスリーという目標を立てていた。
 「中ちゃん、ちょっと疲労がたまっているよ。千葉ではベストを目指すんだろ」。「うん、そのつもり。だから少し練習を控えて疲労回復をしなければと思っている。今日が最後の追い込み練習のつもりだ」。
 そんなたわいもない話をしていた。中ちゃんはビールの中ジョッキ2杯と梅酒を飲んだ。「やっぱ梅酒は美味しいわ」。気が付くとボクが乗るバスの時間が迫っていた。ダッシュで会計を済ませバス停まで送ってもらい彼と別れた。
 今からおよそ12年前の1月16日のことだ。
 翌日午後3時ごろ、粕谷達さんから電話が入った。「社内メールで『訃報』が入って、中村正二って昨年ソウルマラソンに一緒に行った彼だろ。彼が亡くなったって」
 粕谷さんの職場に中ちゃんのお兄さんが勤めていて、それで社内メールが来たということは後で分かったけど、そのときはなぜ粕谷さんがそんなことを言いだすのか、理解できなかった。「同姓同名の人違いだよ。だって彼は昨日のアトミの練習ではキロ4で走り切ったよ。元気だよ」。そう言って電話を切ったけど、気になる。
 もし間違いだったら大変失礼になると思いながらも中ちゃんの自宅に電話してみた。「あのぉ、ちょっと変な話を聞いたのですが、正二君に何かあったのですか」と。電話に出られたのはお兄さんだった。え、今日は仕事では・・・一瞬思ったけど、その理由はお兄さんの言葉でわかった。「はい。亡くなりました」
 呆然とするボクは冷静にならなければとやっとの思いで亡くなった理由とその後のことについて聞いた。亡くなったのは心臓麻痺。詳しいことは解剖の所見を見ないと分からないけど、朝起きてこないので母が起こしに行ったところ倒れていたそうだ。「今後の予定は今日の夕方6時ごろ分かりますから」とのこと。
 電話を切った後も混乱したままだった。しかしこの混乱の中でみんなに連絡しては混乱が混乱に拍車をかけると思い、6時を待った。そしてお通夜・告別式の日取りと場所が決まったので、皆にメールをした。Facebookやメッセンジャーのない時代なので一人一人にメールを入れた。受け取った仲間は当然驚き混乱していた。「ヨシキさんが悪い冗談を言うはずないし、一体何なんだ」と確認の電話がひっきりなしに鳴り響いた。そのやり取りは深夜まで及んだ。
 告別式には大勢のランナーが集まってくれた。1月20日、千葉マリンマラソンの日だ。「レースは棄権して告別式に行きましょうか」という問い合わせには、「みんなレースに参加してくれ。それが中ちゃんの願いだと思うよ。その代りベストを出して早めにゴールして駆けつけてくれ」と答えた。従って、多くのランナーは告別式には遅刻して参加した。次々と集まるランナーたちに遺族の方は驚いた。こんなに息子が走っていたとは、「話さないから知らなかった」という。確かに中ちゃんは口数が少なかった。
 告別式を終え、出棺。それをお寺の外で迎えようとしていると声がかかった。「ヨシキさん、担いでくれ!」と。キネシオの会長、加瀬健三さんだった。中ちゃんの叔父さんにあたる人だ。急遽担がせてもらい、火葬場へお供し、遺族の方にランナーとしての中ちゃんについて思い出を話させていただいた。
 未だに信じられないのは心臓発作。心肥大が原因らしい。「何で?何で?」。医者は階段を数歩上がるのも辛かったはずだと言ったらしい。「そ、そんな馬鹿な。何かの間違いだ。スポーツ心臓と肥大を間違えたのであってそんなはずはない」、と遺族には何度も話した。
 しかし解剖の結果は心肥大で間違いなかった。信じないボクに解剖の詳しい所見を見せてくれた。前年の定期健診で不整脈が出ているので再検査するようにということが言われていたらしい。不整脈が出ている仲間には話していたようだ。「まあ、気にしないけど年が明けたら再検査に行ってみるよ」と。たとえ生きていても心臓移植しか助かる道はなかったということだったが、検査に行っていたら助かる可能性はあったのに……。
 何故このようなことを35周年という記念すべき文集に寄せたのかというと、「この教訓を無駄にしないでほしい」ということだ。ボクがアトミにお世話になって20年。その間、物故者となった方は他にもいる。交通事故で亡くなった方もいらっしゃるが、病気で亡くなった人が多い。心臓や脳が原因という方だ。内臓不全もあったな。思い出すのも辛いことだ。ハードな練習を保つには健康に十分注意が必要だ。
 「去る人日々にうとし」。中ちゃんを知るアトミメンバーも少なくなってきた。それはそれで仕方のないことだけど教訓だけは忘れてほしくない。 
 ボクは今でも命日には中ちゃんに会いに行っている。持参するのはお水と線香の他、ビールか梅酒だ。中ちゃん、珈琲も好きだったようだ。毎朝珈琲を落とすのは彼の日課だったと家族の方が言っていた。
 38歳。この時間は止まったままだ。


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