アトミクラブ
1500m 38歳で自己新!
黒澤 巧 (入会1996年)

 まず初めに、私は中学生から陸上競技をはじめ、主に800m、1500mを中心に活動してきました。大学では同好会という形で競技を続けてきました。その後、大学在学中の1988年に先輩から誘われた形で、楓ACに入会し、田園クラブ、神宮ACの方とも交流が広がっていく中、1996年からアトミクラブの練習会メンバーに入れていただき、現在に至るわけです。
 その中で一番思い入れの深い種目は1500mです。大学4年の9月、まだ土のトラックだった織田フィールドで、同好会の記録会で出した4分14秒(もちろん非公式)。それくらいの記録ならすぐ更新できるだろうと思いながら、なかなか更新できずに数年が経ってしまいました。
 そして、社会人になり、仕事が忙しくなったりして、走れなくなることも多くなってきました。36歳になった2002年には坐骨神経痛になってしまい、ほぼ1年間棒に振ってしまう形になりました。2003年に故障も治り、仕事の忙しさからも解放され、再び走れるようになってきました。
 2004年は私には珍しく、肉体的にも精神的にも好調でした。5月の日体大記録会で、4分18秒6の自己3番目の記録で走ることができたので、自己新を狙うなら、6月の記録会しかないと思い、そこにピークを合わせるように準備をしてきました。
 そして、その6月27日の日体大記録会がやってきました。400m65秒、800m2分12秒がかなり楽に感じられ、「今日はいける」と思いました。ラスト1周を3分4秒で通過したときに少し体がきつくなってしまいましたが、「ここで気を抜いたら一生後悔する」と言い聞かせました。ただ、1100mから1400mは全く覚えていないんです。ラスト100mで腕がしびれるのを我慢して必死に腕を振ったのを覚えています。ゴールのところにある時計を見たとき、これで自己新は出せたと思いました。後で掲示板の結果を見たら、4分11秒4の自己新。38歳2カ月で1500m自己新でした。
 あれから15年、53歳になりましたが、今振り返っても一番うれしかった「人生最高の瞬間」でした。あの後、間近で見ていた篠原義雄監督から、「今までで一番いい走りをしていたよ」と、褒めていただいたことを覚えています。 
 今でも走り続けていますが、年齢には勝てず、記録は後退するばかりです。なかなかモチベーションの上がってこない中、どこを目標にすればよいのか模索している段階です。
 36歳になった2002年には坐骨神経痛になってしまい、ほぼ1年間棒に振ってしまう形になりました。2003年に故障も治り、仕事の忙しさからも解放され、再び走れるようになってきました。
 2004年は私には珍しく、肉体的にも精神的にも好調でした。5月の日体大記録会で、4分18秒6の自己3番目の記録で走ることができたので、自己新を狙うなら、6月の記録会しかないと思い、そこにピークを合わせるように準備をしてきました。
 そして、その6月27日の日体大記録会がやってきました。400m65秒、800m2分12秒がかなり楽に感じられ、「今日はいける」と思いました。ラスト1周を3分4秒で通過したときに少し体がきつくなってしまいましたが、「ここで気を抜いたら一生後悔する」と言い聞かせました。ただ、1100mから1400mは全く覚えていないんです。ラスト100mで腕がしびれるのを我慢して必死に腕を振ったのを覚えています。ゴールのところにある時計を見たとき、これで自己新は出せたと思いました。後で掲示板の結果を見たら、4分11秒4の自己新。38歳2カ月で1500m自己新でした。
 あれから15年、53歳になりましたが、今振り返っても一番うれしかった「人生最高の瞬間」でした。あの後、間近で見ていた篠原義雄監督から、「今までで一番いい走りをしていたよ」と、褒めていただいたことを覚えています。 
 今でも走り続けていますが、年齢には勝てず、記録は後退するばかりです。なかなかモチベーションの上がってこない中、どこを目標にすればよいのか模索している段階です。


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