アトミクラブ
初めて母に追いついた(てしまった)
東京国際女子マラソン
小田切(松田)玲 (入会1996年)

 東京国際女子マラソンには確か21回大会から最後の30回大会まで出場していたと思う。 本当は第20回記念大会で出場できるように狙っていたが思うようにはいかなかった。

 母(松田千枝)は第1回大会から出場し、途中3回程故障で出場できなかったが、確か東京国際女子マラソンでは一番の出場回数だったと記憶している。 私もまだ小学校に上がる前から東京の沿道で母を応援していた。 その時は胸が熱く、誇らしい気持ちでいたことをよく覚えている。

 私がダイエットのために走り始めた時は、まさか自分が国際大会を目指し、出場するとは夢にも思っていなかった。 なんとか出場できる3時間15分を切り(つくばマラソンで梨本忠さんに引っ張っていただいたおかげで)、翌年の東京国際女子マラソンから出場することになった。

 夏は母を含め家族で長野などに毎週のように合宿に行っていた。 30キロ、40キロのペース走の練習をする時もすぐに母は見えなくなってしまう。 大会でもスタートして母を確認するのは折り返しで先に行く選手とすれ違う場所だった。 だいたいその時の差で母の調子がいいかどうかある程度目安になる。

 2005年の第27回大会では、平和島の折り返し時点であまり差がないような印象があったが、 32キロを過ぎる頃から、母の目立つユニホームが肉眼ではっきりと確認できるようになってきた。 「これは体調悪くなったな!大丈夫かな?」と自分の走りよりずっと気になり、母の姿をとらえながら走っていた。 心配だったこともあって、その辺りからはオーバーペース気味になり、少しでも早く母に追いついて「大丈夫?」と聞きたくなっていた。

 水道橋を過ぎ、35キロを過ぎてやっと追いついた。 母の状態を確認したいのと、なんだか追いついてしまったことの寂しさや、やってはいけないことをしてしまったような罪悪感でちょっと眼がしらが熱くなるのを感じつつ、瞬きしながら声をかけると、「玲ちゃん!!連れてって〜!」と大声で叫んできた。 「え??連れてって??」でも私、ペース落とさないよと思いながら、母を引っ張ろうとしたが今度はその前のオーバーペースが祟り、ダラダラと続く登り坂で今度は母の方が元気になって私を引っ張っていた。

 ハッキリ言って母は元気を取り戻し私より先に行けるはずだったが、少し足踏みするような余裕を見せながらも一緒に走ってくれた。 その時、気づいたのは、沿道からの応援の多いこと。ずーっと声援が途切れず、母もそれに応えている。確かに誰より一番出場している大会だが、それにしてもすごい!!こんなに応援してもらえたら、嬉しいよな〜。 とヘロヘロになりながらゴールを目指す。 最後、国立競技場に入りトラック最後のストレートで母は「もう、手をつないでゴールしよう!」と言ってきた。 もうなんでもいいよと思いながら、最後は繋いだ手を高く振り上げてゴール!3時間7分25秒だった。 その時の写真を元に、実家の玄関の表札に二人で手を上げたシルエットがガラスに刻まれている。 そういえば、母は娘の私に抜かれてショックだったのかどうかは、まだきいていない。


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