アトミクラブ
走る宿命(さが)
山内 修(2005年入会)

 2013年1月、勝田マラソンを3時間5分で走った翌日に脳出血(脳卒中)で倒れてから、7年が経ちました。2週間の入院でしたが、60名を超えるアトミの仲間がお見舞いに来てくれて感激しました。
 1〜2カ月は安静にしていたにも関わらず、後遺症(痺れ、麻痺など)が一向に良くならないどころか、逆に悪くなる一方で、うつにもなりました。今まで治る病気にしか罹ったことがなかったので、「後遺症は一生つきまとう。これ以上は良くなる事はないだろう」と医師に告げられ、それを受け入れるのに時間がかかりました。
 たとえ自分は走れなくても、アトミで皆の頑張っている姿を見ると、とても前向きな気持ちになり、うつも楽になるので、走れないのにアトミに行っていました。
 徐々にジョギングも再開しました。ジョギングは前を向いていないとできないので、気分も前向きになり積極的に外に出るようにもなりました。
 そのうちに、うつも薬とジョギングとアトミの見学でだいぶ良くなり、その年の夏の5000メートルTTではまだランナーの素養が残っていたのか、22分40秒で走れました。このタイムは倒れた日以降のベストでした。「これなら意外に早く走力も体力も元に戻るだろう」と軽く思っていましたが、そんなに甘くはありませんでした。
 その後、痺れがだんだん酷くなり、そのたびに気持ちも凹んでしまい、徐々に走らなくなりました。そうして、アトミにも行かなくなってきた頃、走る気はなかったのに2014年の東京マラソンに当選してしまいました。「どうせ走るなら完走したい」と、またアトミにも復活します。倒れてから1年後でしたが、幸いにもフルを完走する力はまだ残っていたようで、4時間44分で完走。結局これが倒れて以降のフルのベストです。
 その後は痺れに加えて運動不足による筋力低下と後遺症の麻痺のため足の着き方が悪くなったことが原因で、以前からあった足首の痛みがどんどん酷くなり、さらに走れなくなってしまいます。気持ちも完全に切れて、アトミにも全く行かなくなり、2015年頃には痛みで1キロも走れなくなってしまいました。走らなければ、痛みも引くだろうと、3か月くらい全く走るのを止めてみたこともあったのですが、痛みが引くどころか悪循環で筋力がさらに低下し、足のいたるところが痛くなって歩くのも辛くなりました。この頃が一番のドン底でした。
 そんな時にまた、2016年の東京マラソンに当選してしまうのだから不思議なものです。無理やり気持ちを奮い立たせ少しずつ練習を再開してレースに挑みましたが、20キロも行かずにリタイヤ。
 でも、それがきっかけでアトミにもまた、少しずつ参加するようになりました。「どうせなら何か目標を持とう」と思い、当時の状態ではもう一生、無理だと思っていた、「レースで朱実(妻)を破ること」を最大のモチベーションとして練習し始めます。多少走れるようになってくると、もともと登りが得意だったので坂の多いレースなどではたまに勝てるようになってきました。
 そして、2017年1月、フロストバイトでついに4年ぶりに朱実にハーフで勝つことができました。以来、勝ったり負けたりのレース展開で良いライバル関係となっています。
 ようやく走る気力も戻ってきた頃、2018年の東京マラソンにまた当選します。まだフルを完走できる力が戻っているかは微妙でしたが、4時間58分でなんとか完走できました。
 2014年、2016年と、もう走るのを辞めようかなと思うと東京マラソンに当選。東京マラソンが当選しなかったら走ることを辞めていただろうし、アトミも辞めていたと思います。ランニングの神様が、「お前は一生、走り続けろ」と言っているようで、何か宿命(さが)のようなものを感じ、東京マラソンと、そんな時に必ず練習場所として戻ってこられる場所、アトミクラブがあったことには感謝しかありません。
 その後、アトミにもほぼ毎週参加するようになってくると、5000メートルTTの記録も少しずつ伸びてきて、2019年6月のTTでは22分35秒。6年前に倒れてから初めて自己ベストを更新することができたんです。
 今でも後遺症は年々少しずつ酷くなっていますが、今の一番の目標は10年前には3時間45分で走れた「富士登山競走山頂コースの資格を取ること」です。
 こうして、一生、走り続けるんだろうな・・・・


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