アトミクラブ
遅れて始めたマラソンとアトミクラブ――
(忘れられない笠松クラブとの駅伝戦)
樋川仁省 (2001年入会)

 私がマラソンを走りだしたのは1990(平成2)年の49歳位からで、昼休みに新宿中央公園(都庁舎前)の周回コースでした。その当時、資生堂の松田千枝さん、谷川真理さん、ほか都庁のエース下工垣敬一さん達がゆっくりと走っていたので、素人ランナーの私は必死で後を追っていました。
 しばらくして下工垣さんが千駄ヶ谷国立競技場で専門コーチが陸上競技(マラソン)を教えているとお聞きしたので、その夜、競技場に赴くと、高体連の磯部先生と学芸大の赤木先生が指導していました。私は国立競技場の週2回(月曜日、木曜日)のインターバル練習会(ペース走を含む)に月謝支払いで参加し、業務終了後の競技場通いが常態化しました。55歳の時に佐倉フルに出場し、2時間58分33秒の初フルを達成しました。
 さて、私とアトミクラブの出合いは2001(同13)年の60歳の時。何気なく織田フィールドを覗いて、アトミの集団インターバルを拝見してランナー諸氏の熱気とレベルに圧倒されました。高いレベルの練習は無理と思いましたが、比較的自由な雰囲気と篠原義雄監督や関田善作事務局長の気さくな人柄と威圧的でない練習態度に触発され、いつの間にか織田通いが始まっていました。練習会後は銭湯に入り、近くにあった飲み屋の2階の座敷に上がり、宇佐美先生を上座にビール反省会がいつもの定番コースとなっていました。
 私にとってのアトミクラブの一番の思い出は2008(同20)年、第37回全国OB・OG駅伝です。当時、茨城の笠松クラブには3連敗を喫しており「今回は何としても雪辱を晴らすぞ!」的な空気がアトミクラブチームに充満しておりました。OB・OG駅伝は男子65歳以上、60歳以上、55歳以上、50歳以上、40歳以上の5人でタスキを繋ぐ駅伝でした。
 男子はアトミから5チームが出場し、各年代の精鋭で臨みました。私は65歳以上の1区に配され、同じアトミの福岡豊則さん、茂木正さん、小賀田和美さん、柴澤篤雄さんとスタート位置に並びました。いざスタートし、アトミクラブの5人のうち、4人は19分台で中継、もう一人も21分台で入りました。アトミクラブAを背負った1区福岡選手、2区秋葉晴彦選手、3区細野亮司選手、4区遠藤昌志選手、5区小西亘選手の活躍で笠松クラブに2分以上の差をつけ悲願の打倒を果たしました。私が1区で走ったBチームも3位に入り、女子チームもBチーム2位、Aチーム3位、Cチーム7位と健闘しました。
 アトミクラブ参加の駅伝で、共に走れた幸せをつくづく感じた一瞬でした。


| アトミを繋ぐ | 35周年記念文集へ |