アトミクラブ
アトミの思い出
河田寛人さん (入会2005年)

 僕は君原健二さんのファンである。僕の両親とほぼ同じでまもなく80歳になる。昭和16年3月福岡生まれ。東京、メキシコ、ミュンヘンと五輪3大会連続五輪。メキシコで銀メダル、それ以外も1桁順位の成績を残した。選手として35レース、引退後も市民ランナーとして東京マラソンも連続して走られている。通算で80回ほどフルを走っている。鉄人。

 浜上潮児氏が君原健二さんについて書いた『僕はなぜ走るのだろう』を高校1年生の時に読み、君原選手のファンになった。「ポンコツ父ちゃん」こと君原選手のスピリットは、インターバルトレーニングに取り組みFacebookにラン日記を残されているタケ先生こと田中猛雄先生のランに対する精神と、そして故障期間中も織田に来て1年間にわたって8コースをゆっくりジョグしていた篠原義雄監督の姿と重なる。「ダメはダメなりに頑張る」とおっしゃっているタケ先生は全然「ダメ」ではなく鉄人。篠原監督も鉄人で今でも畏れ多い存在である。監督はまだアトミに行き始めたばかりの私によく「河ちゃん、河ちゃん」と声をかけていただいた。岩手の三浦ケンケンの実家に宿泊して参加した一ノ関国際ハーフマラソン。夜に皆んなで輪になって監督からセルフマッサージを教わった記憶が新しい。

 監督との思い出で忘れられないレースがある。2007年11月の大田原マラソン。当時私は2006年つくばで3時間00分30秒、2007年東京で3時間02分となかなかサブ3が出せず足踏みをしていた頃で大田原、つくばと保険をかけていた。大田原は25キロでブレーキ。サブ3集団に吸収されながらも後方で我慢。それでもキツくなり35キロでサブ3集団から離れてしまった。歩きそうになったところに監督が険しい表情で後ろから。監督の真っ白なシューズの先端部が鮮血に染まっていたのに気づいた。ここで離れるわけにはいかず自分の苦しみも忘れていた。「河ちゃん前に出ろ」と言われたのか、あるいは手振りだけだったかは忘れたが、とにかく監督の前に出てゴールを目指した。振り返らなかった。振り返れなかった。自分は3時間02分、程なく監督も03分位と違わずゴール。監督のシューズは痛々しく血に染まっていた。

 この3日後、僕はつくばでグロス2時間59分43秒の初サブ3を出した。大田原の翌日、タケ先生が文字通り「ポンコツ」の僕の身体にかなりの数の鍼を打ってくれ、時間の許す限り強張った筋肉をマッサージしてくれ「河ちゃんならいけるよ」と元気に送り出してくれた。「やめといたほうがいいよ(DNS)」とか「ファンランにしときなよ」と言った弱気発言はなく、「できる、やれる、やってごらんよ」の一点張りだった。そしてレース中は3日前の監督の血に染まったシューズ…の記憶が僕を押してくれた。

 今年2019年、タケ先生から「河ちゃんあれからもう12年かぁ、12年後の今(2031年)も元気で走っていよう」というタケ先生は言ってくれた。僕の答えは迷わず諾だった。

 アトミクラブという35年の歴史あるランニングクラブで素晴らしい仲間と共に走らせていただけることに感謝している。いつかゴールで待っている息子に「ポンコツ父ちゃんが帰って来たよ」と言いたい。


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