(司会)平井信行さん
(司会)由美さん
(司会)平井さん
(司会)由美さん
(司会)平井さん
三浦勝男さん
本日、この素晴らしいステージは献身的なサポート軍団の集大成なのです。 皆さん、日ごろの感謝を込めて大きな拍手を送ろうではありませんか。サポート軍団に大きな拍手をお願いいたします。(パチパチパチパチ…) 大好きな新しいメンバーの皆さん、アトミクラブのこれから主役はあなた達です。レベルアップはもちろん、そして成熟したランナーとして頑張ってください。 これからもアトミは皆さんと共にあります。 本日、160名あまりのご出席の皆さんと残念ながら欠席された520名近いメンバーの皆さんとともに力強く開会宣言をいたします。 皆さん、ありがとうございました。 (司会)平井さん 三浦さま、ありがとうございました。続きましてはアトミクラブの草創期から練習されて現在はアトミクラブ代表としてアトミクラブにはなくてはならない存在、 象徴のような存在、関田善作様よろしくお願いいたします。
関田善作さん
さて、アトミクラブは1984年4月に誕生いたしました。 1984年は3月でも根雪の残る、そして、連日、異常低温注意報が発令される寒い、寒い厳冬の年でした。 2か月近く冷凍庫の中に居るような寒冷状況が少しずつ緩んできた4月、「つくし」が芽を出すようにアトミクラブが誕生いたしました。 今日は私事ですが35年前に私がこのクラブに感じた歴史の1頁をお話しできたらと思います。 アトミクラブが立ちあがったばかりの頃、私は千駄ヶ谷にある東京体育館脇の300mサブトラックで練習を行っていました。 私はこの頃は他のグループの方と練習していましたが、同じトラック内を伸び伸びと走るアトミの皆さんの姿は見て「ああいいクラブだなぁ」と憧れを抱いていました。 私が最初に練習していたグループの世話人というのは、練習会には来たり来なかったり、遅れて来ることもしばしばでした。 別にその方を悪くいう訳ではないのですがどちらかというと他人に厳しく、自分には甘いタイプだと感じていました。 こちらが一年以上も前から入会希望を出しているのに、なかなか正式メンバーとしては受け入れてくれません。 このクラブの伝統がどうのこうの、メンバーの多くから賛同を得なければ入れないなどと、勿体ぶっているばかりで、なかなか正式な仲間には入れてもらえませんでした。 こういう雰囲気の中では、これから先、思うように走れないなと判断し、 ある日、アトミクラブを立ち上げたばかりの篠原さんに「今日、練習に参加していいですか?」と尋ねました。 「ああ、いいですよ、遠慮しないで一緒に走りましょうよ」のひと言だけでなんのこだわりもなくトラック練習に参加させてくれました。 「一緒に走りましょうよ」この一言が、いまだに忘れられません。前述のクラブとの大きな違いです。 クラブ立ち上げには間に合わなかったものの少し遅れての入会になりました。 あの時、アトミクラブに入れていただいたおかげで素晴らしい仲間との出会い、生涯を通してお付き合いしていける多くの友人ができました。 さて、話をクラブの事に戻しましょう。 最近の練習会にはアトミが結成された当時、まだ生まれていなかった世代が参加し、いまでは織田フィールドの練習会を引っ張っています。 女子ランナーの積極的な走りも目立ちます。 またベビーカーで2世を連れたママさんメンバーや親子2世代での参加、ご夫婦での参加も多く見受けられます。 これに加え80歳を過ぎてもインターバルに参加される現役ランナーもいます。さらに云えば障害を持ったランナーがごく普通に参加しています。 様々なメンバーが互いに競い合ってさらに高めていくのがアトミクラブの魅力だと感じます。 アトミクラブはこの35年の間にたくさんの栄誉と栄光をいただいてまいりました。その一つ一つを挙げればキリがないほどです。 ですがアトミクラブの良さは栄光とか栄誉それだけには終わりません。 一人ひとりの人間がいかに充実したランニングライフを送れているかを大事にするクラブだからです。 毎週の皆さんの活き活きした走りこそがクラブの求めるものなのです。 今後、草創期にたてたアトミクラブの精神がさらに受け継がれていけばいいなと感じています。 最後になりますが今回お呼びできなかった方が10名ほどいました。フィリップ・リーさん、岩垂猛さん、師岡克則さん、本田博さん、 川端仁一さん、中村正二さん、松村忠三さん、小沢浩子さん、柴崎康男さん、大友誠さんです。 今読上げたメンバーはこの35年の間に志なかばで先立たれた方たちです。 これまでこのアトミクラブの活動を天界から見守り続けてきた方たちです。 「今日の会」が無事開かれたことをこの10人の方にご報告し、アトミクラブは今後5年先、10年先、さらに先も、変わらずに活動していく事をここに誓い、 私の挨拶とさせていただきます。 なお、本日は懐かしい皆さんと一緒に大いに飲み、かつ、大いに語り、楽しい時間を過ごしたいと思っております。 皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。
(司会)平井さん
マラソンの戦績は、オリンピック"マラソン日本代表"として1968年メキシコ、1972年ミュンヘン、 1976年モントリオールと連続3回出場など、国内、国外のフルマラソン公認大会に41回出場し、 そのすべてを完走し、うち11回の大会で優勝されています。 特に琵琶湖毎日マラソンでは連続3回を含む5回、優勝されています。 自己最高記録は、1970年12月の福岡国際マラソンの2時間10分37秒8で、これは当時の日本最高、世界歴代3位の記録でした。 ※ちなみに、日本でオリンピックマラソン代表に3大会連続で選ばれて出場したのは、宇佐美先生と君原健二さんだけです。 宋茂さんと瀬古利彦さんは幻のモスクワオリンピック代表を含めると3大会連続となります。 また、3回の代表選考レースですべて優勝して代表権を獲得したのは宇佐美先生だけです。幻のモスクワを含めると瀬古さんもですが。 現役引退後は指導者、研究者の道に進まれ、現役時代から日本大学講師、東海大学体育学部助教授を務め、 1992年東海大学教育学部教授に就任されました。2009年3月に東海大学を退職、東海大学名誉教授となられました。 現在は宇佐美マラソン・スポーツ研究室を主宰、またNPO法人日本スポーツボランティア・アソシエーション代表を務め、 全国各地でマラソン指導・講演活動を続けておられます。 アトミクラブでは1995年から練習方法などについて指導していただいております。 前置きが長くなりました宇佐美先生、よろしくお願いいたします。
宇佐美彰朗先生
2つ目は走るスポーツが中心ですから走るという事を、体が上半身と下半身と使い分けをするような人体の構造になっている所、 ぜひ理解をして欲しいという事が2つ目です。 早く走りたい、だったら、なぜ胸を反るの、重心は後ろだよ、それでどうやって速く走るの?脚を速く?足?そんなことしたら踵からしか着かないよ。 踵から着いて足の裏が繰り返されたらどんなスピード?スピード出ないじゃん。 アドバイザーの中でこの事を全然理解していない人が多いように感じています。 体は上半身と下半身が大きく離れて動作できるようになって他の動物とは違う、人間としての分化が作られているのに、なんでそれを理解しないアドバイザーなの? 胸を張ってどうするの、胸を張って頑張る事なんてできやしない。たぶん力んでいるだけだと思うわけだ。 肺活量を計る時、どうする?みなさん、ふーっと胸を内側に持ってきた状態でできるだけ多く出そうとしているじゃない、 走る時になんで胸を反らすの、根本的なところをぜひお間違いにならないように重心はいま立っている所の足の裏の土踏まずにおいているから、 ストンと何十キロの人でも立てているんですよ。そのまま走れといってどうやって走るの?これが胸を張っている状態です。 そんなアドバイス、困るよ。というところ、ある会社が踵のあるシューズを開発しました。 重心を軽くさせて、おっと、と、と、と移動させていく事を開発者は考えた。 ところが会社はその事をひけらかさない、活用できていない。逆に脚を壊している人がいっぱいいるわけです。 踵が上がって踵から着いていったらどうなるの。足元はめちゃくちゃになっているんですよ。 そういうふうなところ、ぜひ速く走りたい、長く走りたいという方は是非、体を鍛える事も大切な要素ではある。 鍛えたものはレースでどういうふうに使うかが二つの要素だと思うのです。 私はいつの間にか、重心が脚から外れておっと、と、と、という足を運ぶフォームを身につけたのでこのダックスフントみたいなものがどうにか走れたと思っています。 鍛えた力を十分に発揮できるよう手伝わせてくれたんではないかなと思います。 ですからエネルギーを蓄えるトレーニングとエネルギーを使う方のトレーニング、 その事の角度をもう一度トレーニングの仕方とレースの運び方を類別してそれが合体するようにお願いしたいと思います。 もしご質問などあればその辺をお手伝いさせていただきたいと思います。 スポーツでヨーロッパのクラブが100年、当たり前、アトミクラブも100年なんて言うのは通過点ぐらいになりましょう。ヨロシク〜!
(司会)平井さん
(司会)由美さん
谷川真理さん(ビデオメッセージ)
その当時のグランド(織田フィールド)がなんと土だったんですよ。強風の日は髪の毛が土埃になってシャワーを浴びると真っ茶色の水になってしまうんですよ。 今はすっかりタータンになりましたけど。その他に夏や春の合宿です。 例えば西伊豆の松崎ですとか小淵沢でやらせていただいたんですが、実業団並みの内容の濃いトレーニングでした。 ほんとうにアトミクラブさんのおかげで、そして皆さんのおかげでいまの私があるといっても過言ではないと思っています。 という事で今年も「第3回谷川真理クリスマスマラソン」を開きます。 皆さんと一緒に走ることをなるべく長く楽しんでいきたいと思っております。引き続きよろしくお願いいたします。 これからもアトミクラブさんの40周年、50周年、さらなる成長を祈っております。 本日はアトミクラブさん、35周年まことにおめでとうございます。谷川真理でした。
(当日は音声再生環境の不具合がありましたので文字によって再現しています)
(司会)平井さん
森 義昭さん
(司会)由美さん
…………歓談タイム 約20分………
(司会)平井さん
篠原義雄監督
(司会)平井さん
(司会)平井さん
(司会)平井さん
酒井健雄さん
その頃の事ですが新年の行事である「奥武蔵駅伝」で優勝し、その後はわが家でトロフィーと賞状を持って大騒ぎし飲み明かしました。 近くの酒屋がウチにあるビールは全部、酒井さんに飲まれたと云われていい気分になり、一生一代の飲み会をしたものでした。 そういう事も含めて長い間、アトミクラブにお世話になり、よかったなと感じています。 で、私もその頃は(フルを)2時間40分あれば何とか完走できたものですが現在では2時間40分でハーフが完走できるかどうかと いう所まで落ちぶれていますがこれからも頑張って応援していくつもりでいます。
(司会)平井さん
(司会)平井さん
今日はこの中からアトミクラブが新年の行事として一番力を入れた「奥武蔵駅伝」に触れてみましょう。 クラブは1985年に初出場、2015年に出場が潰(つい)えるまで実に30回近く参加しました。 草創期の85年に初優勝以来、6年間優勝から遠ざかっていた頃の事です。 1994年、奥武蔵駅伝においては永遠のライバルともいうべき「川口陸協」との一騎打ちに臨みます。 5区まで「川口陸協」リードで迎えた最終6区で追い上げ、付いてからは並走の連続でした。 最後にスパートし、わずか12秒差で勝った「アトミ」が6年ぶりの優勝を飾りました。 この時ゴールのテープを切ったのが山口正春選手です。 この時の「川口陸協」5区石川さんと「アトミ」6区山口さんが本日、お見えですので何か一言お願いいたします。
……ここで「奥武蔵駅伝」の話の絡み役として関田さんにバトンタッチ……
(サブ司会)関田さん
◎アトミの山口正春さんは会社が移転で茨城の方に移るまで20年近くアトミのトップを引っ張ってきました、 ◎一方、石川哲行さんはリスタートを主宰し、毎週木曜日は自分の練習のために織田フィールドで質の高い練習に励んでいます。 この時の駅伝は前年6秒差で涙を飲んだアトミが雪辱を果たした年でした。 前半登り3区間で川口が1分38秒リード、後半の3区間でアトミが追い上げ、ついに突き放すという駅伝らしいドラマがあった年でした。
(サブ司会)関田さん
石川哲行さん
山口正春さん
いま駅伝のお話が出たんですけれどクラブの皆さんにご恩返しをするとういう事は駅伝で優勝する事が一番だと思っていました。 この当時はなかなか優勝できなくてチームやスタッフの皆さんにはヤキモキさせていつ優勝できるんだという思いでした。 そういう時にこの大会を迎えて6区でタスキを貰った時には先行と3,40秒差あったと思うんですけれどもこのまま走って今年も2位かなという気持ちが起きたんですが、 私の前の区間を走った安東君というのがいまして私にタスキを渡す時に「お願いします。優勝してください!お願いします!」と声と同時に熱い思いのタスキで受けました。 この事が頭に残っていましてなんとか一生けん命走って行くと残り2キロに差し掛かった時、前にそれらしい姿が見えてきました。 たまたま逆転で優勝できたんですけど私一人の力じゃなくて、その時、その位置までタスキを持ってきた、 ここの表(プロジェクター映像)にもありますけど稲川さん、富田さん、根本さん、細野さん、安東さんが頑張ってくれたからこそ、 その分を最終区間のタスキに込めて走れたと思います。この時は4区細野さん、6区私が区間新記録でした。 この後、距離が変わったのでこの記録は今も残っているはずです。 この時の走りは私がアトミに世話になって30年以上経つんですが、今でも記憶の残るベスト3に入る走りではなかったかと思います。 本当にありがとうございました。
(サブ司会)関田さん
石川哲行さん
山口正春さん
(サブ司会)関田さん
(サブ司会)関田さん
(司会)平井さん
(司会)平井さん
細野亮司さん
今日は昭和の最後の頃の話をさせていただきます。 いまアトミの合宿は長野の菅平だとか、新潟の越後湯沢に行っていますが、 昭和の終り頃、私は仕事の関係で東北の福島県に行きまして太平洋側の人口5000人にも満たない小さな町、広野という所に行きました。 そこにメンバーにアトミクラブの合宿できてもらいました。当時、アトミの合宿は長野の富士見高原、それから伊豆の松崎が主だったんですね。 1987、8年その頃に私が東北の広野という所にいきました。ちょっと1曲、歌いいですか? ♪いまは山中、いまは浜 いまは鉄橋渡るぞと 思う間もなく トンネルの 闇を通って 広野原♪ この広野という町でアトミの合宿を開いたんです。 当時のメンバーでこの合宿に参加し今も現役で走っておられる大先輩の方々がいます。 小賀田さん、若松さん、酒井さん、関田さん、梨本さん(忠さん)、女性の金塚さん達とともに楽しい合宿をしました。 以上、昭和の終り頃の合宿の話しをさせていただきました。 アトミクラブがこれから40年、50年、100年とさらに続いく事を祈念して私の挨拶に代えさせて頂きます。 おめでとうございました。
(司会)平井さん
(司会)平井さん
毛塚敏男さん
私はいま65歳ですが今から5年前、定年を機に白羽の矢が立って会計を担当する事になりました。 その当時は管理されている名簿が1000人以上ありました。 まだその時はエクセルではなくて手書きの台帳がありまして、誰から年会費が入ったとほとんどアナログの世界で管理をされていらっしゃいました。 私が担当して、これではできないと思い、整理し、いまは簡便に年会費のチェックをさせていただいています。 本日は大変申し訳なかったんですが、今年度の年会費が未払いの方は受付で1000円をお支払いいただきこの会に参加してもらっています。 ありがとうございました。 私がアトミクラブに入ったのが2001年、さすがに2年間は合宿に参加できずに、 参加していいんだろうかの思いもあって躊躇しましたが、2年後に意を決して2003年の時に参加いたしました。 その次の年も湯沢合宿に参加して、その時に先ほど司会者からお話があったように合宿の夜のお楽しみ、カラオケ部屋で「毛爺(けじい)」という名前が付きまして、 自分的にはまだ50歳そこそこなのに「爺(ジジイ)」はおかしいのではないかと思いながらも、 たまたま入ったカラオケルームがお年寄り部屋で2004年の時から関爺が恐怖のカラオケ部屋「シーラカンス部屋」と命名し、 それからこの部屋に行く男性は名前に「爺」が付くようになっています。 以来、「毛爺」という事になって今思うといい愛称を貰ったなと感謝しております。 皆さん、遠慮なく「毛爺」と呼んでいただければいいかなと思います。 よろしくお願いいたします。今回の35年のイベントは関爺と梨爺の思いの相当詰まったイベントになっています。 これからもお開きになるまで楽しんでいってほしいと思います。
(司会)由美さん
(司会)宮下 毅さん
(司会)宮下さん
(司会)小田切玲さん
(司会)玲さん代読
(アトミクラブ通信編集 関田)
(司会)宮下さん
(司会)宮下さん
梨本忠三さん
開設当初はクラブの紹介、大会記録の掲載など発信している情報量もわずかでした。 まだ使えるサーバーのデータ容量も少なく、写真などの画像情報は載せることができませんでした。 その後、使えるサーバー容量の拡大に伴い掲載内容も少しずつ増えていきました。 それでも容量制限の壁は厚く、レンタルサーバーと契約し、掲載情報も引っ越しました。 過去のアトミクラブ通信や写真等多くの情報を取り込めるようになりました。 おかげでアトミホームページはチームヒストリーであり、長年に渡って蓄積してきた情報の保管庫と言えるようになりました。 またプロバイダーのサーバーでは制限・制約の多かったパスワード認証、アクセス集計等、 サーバー側に置くプログラム(CGI:Common Gateway Interface)も容易に組み込めるようになりました。 普段、伝言板と練習日程を見ている方は、お時間のある時に他のページも覗いて見てください。 きっと新たな発見があるかもしれませんよ。
ホームページ開設して一番苦労したのがスパム投稿です。そのことについてお話しさせていだだきたいと思います。 スパム投稿対策には、ここにおいでの功刀さんからも貴重なアドバイスをいただきました。その時はどうもありがとうございました。 スパム投稿とは、伝言板サイトを攻撃し、壊滅させることを目的とする悪意あるプログラム投稿のことです。 2000年頃にメンバー間の情報交換や記録報告の場として「アトミ伝言板」を開設しました。開設してからしばらくするとスパム投稿が増え始めました。 最初は少なかったのでその都度削除していましたが、あるあたりから急激に増加したため投稿拒否リストを登録しました。 これはスパム投稿対象となるドメイン名を登録することによりスパム投稿をブロックするしくみです。 ブロックした投稿はログに残るのですが、一定量のログになると普通の投稿もできなくなるため、 ログ削除作業をアトミの何人かのメンバーに協力をお願いしました。 そのうちにドメイン名を変えてくる荒手のスパム投稿が出てきて別の方法での対策の必要性に迫られました。 そこで新たに画像認証を入れてみました。 これは投稿時に表示される数字を入力すると投稿可能となるしくみです。 これもしばらくは効果があったのですが、しだいにスパム投稿が増えはじめ、手動で削除するには限界がありました。 まさにスパム投稿との泥沼の戦いでした。 スパム投稿元を辿ると海外からの発信がほとんどでした。 英数字の文化圏であれば、画像認証のパターンを漢数字にすればブロックできるかもしれないと考えました。 そこで早速、画像パターンを英数字から漢数字に変えてみました。これは効果絶大でした。 今ではスパム投稿はほとんど発生していません。 幅広い多くの情報をホームページに掲載できているのは、これを支えて下さる皆様のおかげです。 アトミクラブ通信の編集長の関田さん、練習計画を立案・作成していただいている中沢さん、記録を収集し投稿いただいている伊藤真さんと毛塚さん、 アトミ伝言板に大会参加記録や感想を書き込んでいただいている投稿者の皆様のご協力をいただいてこそできることなのです。 ホームページを見た人から「こんなクラブを探していた」、 「自分が思い描いていたランニングクラブだった」と励ましの言葉をいただくと開設して本当に良かったと思っています。 また、「アトミクラブ通信」が紙配信からホームページ配信に変わったことも大きな役割を担っていると自負しています。 これからもホームページを通した情報発信により、皆様のお役にたてればありがたく思います。どうもありがとうございました。
(司会)宮下さん
伊藤さん手を挙げて挨拶
(司会)宮下さん
福岡豊則さん
マスターズ年代別日本記録、800m、2分17秒31ですが、実は59歳の時に全く同じタイムで走っていました。 ですから日本記録を出せる自信のもとに走りました。生意気なことを言うようですが、アッサリ出ました。 生意気ついでに言えば追われる立場になりました。 60歳の時に(記録を)出して65歳の時に頑張りましたが、コンマ数秒及びませんでした。 70歳の時もダメでした。挫折を経験しています。日本記録を目の前に置きながら、毎日練習していますが、記録は下降しています。 現在77歳です。下降ぎみの記録を横這いにしたいところですが、その前に「80歳まで走れればいいなあ」というのが今の気持ちです。 でもャレンジは誰にでもできます。皆さんでもできます。 アトミを通じて自分の力を試し、チャレンジする場として一人一人頑張ってください。 でも成功ばかりではありません。挫折を経験することも大切です。 挫折があるから頑張れるんです。成功ばかりしている人は、明日はありません。 みんなと一緒にこのアトミクラブを盛り上げていくためには、一人一人が自分は大丈夫だ!できるんだ!という気持ちを持って練習に励んでください。 もう一つ生意気なことをこの爺が言わせていただきます。練習会に体験として参加し、そのままにしている人がいる。 何年も会費を払ってない等の常識外れのような事を耳にします。 ここにはそんな人はいないと思われますが、もし周りにそんな人がいたら、 そういう人たちにも目を配ってもっともっとアトミクラブが大きくなって、 先ほど宇佐美先生が仰った100年があっという間に過ぎるような素晴らしいチームになって頂ければ、 わたしも墓場で皆さまの頑張りを楽しみに見ていたいと思います。 鳩山はとても良い町です。一周650mのクロカンコースもあります。 テレビや新聞で鳩山のことを目にしたら福爺がいる場所なんだな、と思い浮かべていただけたらと思います。 ぜひこれからも皆さんと一緒に頑張って行きましょう。
(司会)玲さん
(司会)玲さん
片岡さんは現在「リスタート」を主宰しながら時折、アトミの練習会に姿を見せておられます。 男性に交じってガンガン飛ばしています。 片岡純子さんにお話しいただきたいと思います。それでは片岡さん、どうぞ願いします。
片岡純子さん
アトミクラブはほんとうに自由なクラブです。いまもかなり自由にされていますけれども、それが良いところです。 私も個人として自由に参加させていただいています。 今、リスタートというランニングクラブを運営しています。設立当所はどうなるかと思っていたのですが、 ランニング人口も増えて盛り上がっています。 走ることを仕事にしていて、このようなクラブの中にいて個人で参加できることが、とても貴重だと思っています。 私はアトミクラブの練習会は目的をもって参加しています。自由であることは良いことですが、 中にはなんとなく練習会に参加している人が見受けられるように思います。 せっかく参加するのですから、目的を持って有意義な練習会にしていただきたいと思います。 これからも個人的にアトミクラブにお世話になると思いますが、引き続きよろしくお願いいたします。 どうもありがとうございました。
(司会)宮下さん
(司会)玲さん
吉田香織さん(ビデオメッセージ)
(当日は音声再生環境の不具合がありましたので文字によって再現しています)
(司会)宮下さん
稲村淳三さん
(司会)玲さん
(司会)玲さん
(サブ司会)山内夫妻
(サブ司会)山内夫妻
(サブ司会)山内夫妻
(サブ司会)山内夫妻
(サブ司会)山内夫妻
(司会)玲さん
(司会)玲さん
毛塚さん
(司会)玲さん
♪メメコの歌♪ 作詞曲 馬場祥弘. 歌 ザ・ダーツ
(語り)
(歌)
僕はメメコが好きなのに メメコはなんにもわからない
僕はメメコの夢を見た お手々つないでハイキング
私の名前はミス・メメコ あなたはかがみをもってるの ララララ・・・・・・
♪乾 杯♪ 作詞・作曲 長渕 剛
かたい絆に 想いをよせて語り尽くせぬ 青春の日々
あれから どれくらい たったのだろう沈む夕日を いくつ数えたろう
故郷の友は 今でも君の 心の中にいますか
キャンドルライトの 中の二人を今こうして 目を細めてる
乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな舞台に立ち
乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな舞台に立ち
(司会)宮下さん
(プレゼンター)平井さん=から関田さんに感謝状と記念品の授与
関田さんコメント
(プレゼンター)平井さん=拍手をお願いします。 (プレゼンター)平井さん=から梨本さんに感謝状と記念品の授与。
梨本さんコメント
(プレゼンター)平井さん=から袴田さんの代理毛塚さんに感謝状と記念品の授与
毛塚さんコメント
(司会)宮下さん
中沢政延さん
(司会)宮下さん
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