アトミクラブ
アトミクラブとマラソンと 柳原勝さん(東京電力)

1.アトミクラブ発足 ? (もう少し前かな?)

昭和59年3月11日(日)びわ湖毎日マラソン大会の激走?後、京都 ステーションビル内で3人のランナーと会話を交わした。3人とはこれまでの マラソン、ロードレース等において話しはするものの親交を深めているもので はなかった。

今回の会話の内容は「新しくランニングクラブを作るので一緒に やりませんか。気楽にやりましょう」とのこと。

私自身は東京電力との所属で大会には出でいるものの、当然、東京電力を代表 するチームメンバーではないし、大会プログラムより本人の名前を見つけやす く(捜してもらいやすく)するものであり、練習も殆ど個人でやってきたこと から参加させて下さい。宜しくお願いします。との会話でその場を別れました。

この時、にこにこしながら声を掛けて頂いたのが、本文を読んで頂いている皆 さんの予想どおり?の篠原さん、山本さん、梨本さんの3人です。ちなみに大会 のプログラムには

○篠原  義雄(38歳)東京・東京みすじクラブ※1時間49分02秒
○山本勇次郎(36歳)東京・大田区陸協   ☆1時間11分40秒
○梨本 忠三(33歳) 東京・リコー       2時間37分28秒
○柳原 勝 (31歳)東京・東京電力     2時間33分10秒

と示されており、大会名称は「第39回びわ湖毎日マラソン大会・第68回日本 陸上競技選手権大会マラソン・ロサンゼルス五輪マラソン選手選考会」となってい ます。

昭和59年(1984年)から14年の経過となりましたが、私にとってはもっと 長く、充実した日々として感じています。

2.練習会とサワー定期券

アトミクラブとしての練習場所はその時々の事情により変更されてきたことは皆さ んご存じのとおりです。

東京都体育館300mトラックに始まり、体育館を含む全面 改装に伴い織田フィールドへ。また、世界陸上のため織田フィールドのサブトラック 化のための改装工事のため江戸川区陸上競技場へ。そして、現在の織田フィールド (東京都代々木公園陸上競技場)になっています。

このなかでも印象に残っているのは、東京都体育館時代の練習会後の「サワー定期 券」と「江戸川区陸上競技場での練習」です。

●サワー定期券……… 「居酒屋村さ来」のサービス?飲み物券

現在も練習会終了後の良き慣習が続いていますが、私自身に最高のパワーを与えて 頂いたのはこの時の練習会、飲み会ではなかったかと思っています。

トラックではインターバル練習を重ねるうちに山口正春君が足のつり(こぶら返し) により転がり、それを横目でニヤとしながらメニューをこなしていく。

練習メンバーが徐々に強くなっていった時期です。 このころの楽しみはランニング仲間と話が出来ることであり、その時に教えて頂い たことを個人の練習でやってみることでした。

このことから、練習には必ずといっていいほど参加していたのですが、たとえ仕事で遅くなっても「居酒屋村さ来」へ 足を運んだものです。ここでは、当日の練習内、レース等の情報交換に花が咲くのは 勿論ですが、店に人り突然トップギアへと導くのが、山本勇次郎さんの場所・つまみ の予約とサワー定期券による大ジョッキサワーと言っても過言ではありません。

定期券は系列の2店での1日一杯の大ジョッキサワーが無料になるもので乗り物の定期券 を模擬した力ードです。これを入店早々にみんな(20名以上)掲げ「早く、早く」 の合唱(言うのは若松さんだったかな)とともに宴会がはじまるのである。本当によく 練習し、良く飲んだものです。

この勢いが年数回の合宿へと繋がったことは言うまでもありません。

●江戸川区陸上競技場での練習………

練習会を続けるには厳しい時期でしたが上記事情により土の織田フィールドからの 全天候競技場への変更でしたが、位置的には都心より遠く(代々木・千駄ヶ谷より) また、曜日によっては団体貸切り扱い・有料になることからメンバーの減が懸念さ れたものです。

しかし、メンバーの勢いは予想を越えたものでした。毎週これなく ても、月1回だけでもと言う人が集まり6カ月程度実施。 それ以降、やはり遠いとの理由より神宮外苑に変更したとの記憶があります。 (柳原はいろいろの事情によりご迷惑をかけた時期です)

○昭和63年11月(1988年)の練習会記録表より

11月 5日 木:1000mm×7(6分30秒)…… 16名(記録表に記入の方)
11月10日 火:5000m記録会………………………26名( 同上 )
11月17日 火:2000m×4(11分30秒)………16名( 同上 )
11月26日 木:5000m×2(25分)……………14名( 同上 )
     (参加者)延べ36名
       山口、山川、山口(博)、大後、中島、福岡、梨本、吉田、浅木、菅原、
    山本、永岡、関田、柳原、原、遠田、酒井、中村、林、伊藤、増沢、
       篠原、小賀田、築茂、*谷川、有田、浦野、オニール、*佐藤、*金塚、若松
       小川、渡辺(和)、*栗原、高橋、粕谷(記録表への記入順、*は女性)

ちなみに上記の1000m、2000mのタイムでは1本ごとに違う人が山口君を 脅かし、1本でもいいから山口君に勝つ?(おいしいビールを飲む)との勢いで取り 組めた時期でした。(タイムを見ていると楽しいですね)

3.私自身のこと(マラソンの記録より)

○走るキッカケから初マラソンへ

私はマラソンを完走するために走り始めました。 昭和47年3月の東京電力の駅伝大会で皇居17分30秒の記録はありましたが、 故障がち、スキー、結婚、により体重は右肩上がりで増加していました。

走ること といえば事業所の各課対抗駅伝のため1年に1ケ月程度(週3〜4回程度、1回 3〜5Kmm位)とスキー場での早朝に2〜3Km(体を起こすため)走る程度で した。

昭和52年12月、例年通りに事業所の大会が終わった後、後輩である友人・小池隆 さんが、「このまま走ることを止めるのは勿体ない。青梅マラソンに参加しよう。」と 言ってくれたのがきっかけです。

1月:9回・64.2km、2月:14回・75kmと 最大限に努力し、昭和53年2月19日(1978年)第12回青梅報知マラソン 30Kmに参加しました。上記の練習と体重が約70kgの時です。

2時間17分16秒 2084位、前日までの会社では「危ないから走るのを止め ろ」「死ぬぞ」「怪我するぞ」「走れるわけかない」と言われていたのですから最高の 気分でした。

足にまめ、爪のいたみ、太股のズレ、貧血状態とはきけ等々、全てが心地 よく自宅に帰ってから小池氏と二人で大祝宴をあげたものです。飲んでいるうちに 「もう少し早く走れるのではないか。42kmのマラソンをやるべきだ」との話しがまと まり、揚々(酔う酔う)とした未来をみることに成功しました。

話しはよく出来ているも ので、この時期には「ランナーズ」「マラソンマガジン」の一般ジョッカー(表紙も競技者、 早いランナーではない)を対象にした雑誌が発行されており、同年の5月号(発行は青梅完 走後の1ケ月後の3月)に藤井弓子さんが2月11日 勝田:3時間11分41秒、 2月19日青梅:2時間14分4 7秒との記事がありました。すごい!!と思ったとともに 目標設定が楽になったことを記憶しているのです。

1年後の目標は勝田:3時間以内、 青梅:2時間以内として練習に、また、小池氏との飲み会に力が入ったことは言うまでも ありません。 そして、ランニング雑誌が私のコーチとなり月600km走行(1月には)への体作り ……ただ走るだけですが……が始まったのです。

[初マラソン・勝田までの走行距離]

  月     走行距離
--------------------------------------------
  4 月   113km
  5 月   170km-------->転勤
  6 月   200km
  7 月   266km
  8 月   218km-------->体重60kg以下に
  9 月   355km  
 10 月   573km
 11 月   502km
 12 月   557km
  1 月   610km

〔初マラソン・勝田までの主な記録〕

  実施月  大 会 名      記  録
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  4月  桃源郷  20km  1時間21分32秒
 11月  サンスポ 15km     52分12秒
 11月  皇居   8周    2時間30分04秒

〔目標レース〕

 2月11日 勝田マラソン  2時間44分36秒
 2月18日 青梅30km  不調のため休養(参加せず)

初マラソンは成功(タイム的には)しました。後半はかなりのスピードダウンがありました が、とにかく走りきりました。

しかし、朝食が悪かったのか楽しいはずの帰りの電車(普通 電車)も気分が悪く、乗車時に買った久々のビールも口を空けたのは我孫子を過ぎてからで した。

また、計画していた青梅30kmは参加が出来ず、次へのレース:当時の日本三大マラ ソンの一つ別府大分マラソンへの出場・2時間40分以内を目標とすることで切り換えるこ ととしました。(2月のマラソン3時間以内、青梅2時間以内は翌年の別府と青梅の1時間 51分台により目標達成しました)

 前回の転勤は入社以来8年を経ての他店へのもので、仕事とランニングの両立と言うよ りは目標達成のためランニング優先との考え(特に勤務時間外:残業を少なく)で進めた ものです。

上司、先輩の好意的な対応もありやることが出来たのですが、初マラソン完走 の同年(昭和54年)10月に約1.5年の勤務で転勤となりました。

今までは都心での勤務であり夜も練習には支障が殆どなかったのですが、今度は東京の郊 外(日野市百草)で私より4〜6歳年上の社内研修の事務局的な仕事となったのです。

通勤時間が長くなり、仕事も担当の一人ひとりが関係部門と調整しセットをしなければ研 修が進まない状況でしたが、思ったより時間的に余裕がありランニングに対する目標変更 をしなくてもよいことが非常にラッキーでした。

これ以降も仕事での配置箇所は上司に恵 まれるなど、アトミクラプでの練習・仲間とともに感謝しなければいけない事項であると 思っています。

○マラソンの記録

私は20回のマラソンに参加しました。19回完走、1回は32km地点にて棄権です。 1シーズン3回を目標とし2月のレースはタイムを狙うレースとして組み立てました。

昭和の終盤以降は足の故障等が多くなり、平成3年以降はランニング量も少なくマラソン には出場していません。(ここ2年は週1〜3回ジョッカーとなり、もうひとふんばりを 考えなければいけない状況です)参考になることは少ないと思いますが、公表する場は殆 ど考えられず、今回の15周年記念とアトミクラブへの係わりより記載させて下さい。

[アトミクラブ参加以前]

      実施日      大会名    記 録
------------------------------------------------------------
 1 昭和54年 2月11日 勝田  2時間44分36秒
 2 昭和55年 2月 3日 別大  2時間37分53秒
 3 昭和56年 2月 1日 別大  2時間45分56秒
 4 昭和56年 3月29日 信毎  2時間46分32秒
 5 昭和56年11月23日 河口湖 2時間46分38秒
 6 昭和57年 2月 7日 別大  2時間45分01秒
 7 昭和57年 3月28日 ※信毎 2時間44分33秒
 8 昭和57年11月23日 河口湖 2時間42分02秒
 9 昭和58年 3月27日 信毎  2時間36分20秒
10 昭和58年11月27日 河口湖 2時間34分39秒
11 昭和59年 2月 5日 別大  2時間33分10秒
12 昭和59年 3月11日 びわ湖 2時間33分16秒

[アトミクラブ参加後]

      実施日      大会名    記 録
------------------------------------------------------------
14 昭和60年 2月 3日 別大  2時間31分03秒
15 昭和60年 3月10日 びわ湖 2時間37分55秒
16 昭和60年12月22日 防府  2時間28分30秒
17 昭和61年 3月 9日 びわ湖 32km棄権
18 平成 1年11月26日 河口湖 2時間34分39秒
19 平成 2年 2月12日 東京  2時間36分57秒

※ ちなみに、クラブ結成前の昭和57年3月の信毎マラソンプログラムの表紙
  (前年のスター  ト時の写真)では山本さん中央付近に良く写っており(誰
  でもわかる?)その後方  5〜6人目に柳原、その他にの何人かの知り合い
  かいます。また、この大会の宿舎  を東京電力の保養所(戸倉上山田温泉)
  としたのですが、その後、活動を伴にする  篠原さん、師岡さん、細野さん
  他、東京都庁のランナーも同宿となっており不思議さを感じます。
  ………………写真はいろいろなことを思い出させてくれます。

○出場大会へのこだわり(目標とするレースは?)

上記の大会名に示すとおり私の出場大会にはこだわりがあります。前述のとおり11月 、2月、3月の大会より選定し出ているものですが、勝田は第1回のみ、信毎は別大以来 の自己記録を更新した以降出ていません。

他にも東京近郊には筑波、群馬、埼玉、千葉等 に大会はありますが出てみる気を起こさなかったのです。これは、出場大会の結果が全て 完壁だったというものはなく、大会迄の調整方法、レースでの進め方を考え実行すれば記 録の向上に繋がると思ったからです。

2回目のマラソン(別大)で2時間40分を突破し たことから3大マラソン(福岡、毎日と別大)の全てに出場したいとの欲が出てきたので す。このためには、公認大会での参加資格のタイムを突破することが必要不可欠であり、 気象条件が整えば好タイムが期待できる別大マラソンをメインに11月、3月のレース (河口湖、信毎)は気持ち良くシーズンイン、アウトを考え(当然タイムが出れば最高) コースへの不安を無くすことで同一大会になったものです。

この当時、福岡、毎日は別大に比べても別格(現在も)であり、東京の大会は昭和56 年から開始され、行きなり人数制限を含め別格になったものです。

実は第1回東京マラソンは主催者の違いにより読売・日本テレビ系とフジ・サンケイ系の 2大会が実施されました。〔いづれも福岡、毎日と同様の日本陸上競技連盟の主催です。 なお、別大、防府等の九州、中国の地域陸協の王催、勝田、河口湖、信毎は各県の地区陸 協の主催であり大会にランク付けがあります〕

このとき、当然のことながら東京(フジ・サンケイ:3月1日実施)に前年の 河口湖30km:1時間42分02秒(資格:1時間45分以内)をもとに申込みを しましたが人数オーバー(100人以内、実際には80数名参加)のため帖佐専務理事 より「選考に漏れた」との通知を受領しました。

このとき以来、チャンスをものにする(希望する大会に出る)にはとの思いが強くなった のは事実です。しかし、記録を見てのとおり暫くの間タイムが出ませんでした。練習距離は 延びており、大会当日までの調整も完壁?、当日の早朝調整、アップも不安がありません。(防府 以前の大会では20km位まではいつも絶好調でした)

結果は後半のベースダウンにより40分を突破出来ないのです。2回目の37分代のイメージ 「前半がもう少し早ければタイムは2〜3分良かったのではと前半型の方がタイムが出る」 との意識より一般ランナーは平均型の方がいいとの方向に持っていけなかったのです。

2時間27分を突破し福岡、毎日、東京に出場することが目標になりました。

○毎日からびわ湖毎日へ、そして東京へ出場

マラソン9回目でようやく2回目の記録を突破し私自身の黄金時代の到来です。また、 アトミクラプとの係わりが始まりました。9〜11回目は連続して自己記録更新、12回 目もほぼ自己記録、14回目、16回目も記録更新し念願の2時間30分を突破したので す。自己最高の防府マラソンについては後述することとし、ここではびわ湖と東京につい て書かせてもらいます。

びわ湖毎日マラソンはそれまでの毎日マラソンとは違うコンセプトで実施することで名 称を少し変え、参加資格を緩和したものです。自己記録も向上していたことから非常にラ ッキーでした。

現在でも3大マラソンと言われているびわ湖を走れるのです。3年連続3回出場のうち 2時間33分16秒と2時間37分55秒の2回完走、1回は32km地点での棄権となりました。

2時間33分16秒は当時の自己記録とほぼ同タイム(2月と3月の大会)そして、 2時間37分55秒のときはアトミクラブのメンバーと出場し雪のびわ湖東岸道路を 雪帽子を被っての激走、山本さんとグループの先頭を走ったのを鮮明に覚えています。

[山本:2時間32分53秒、師岡:2時間37分01秒]

3回目は防府での自己最高記録2時間28分30秒から3ケ月後でした。自己満足からと もとられる棄権になりましたが、防府大会以前からの故障がひびき前へ進む意欲がなくな ったのが今でも覚えています。(30km地点1時間49分位と覚えており今になって考 えれば記録として残したかったとの思いです)

東京マラソンは1回しか出場出来ませんでした。このため、そして出場の経緯より思い 出が多い大会です。この時期は走れない状態が続いていました。(昭和60年12月の防 府マラソン以降、昭和61年3月のびわ湖毎日マラソンは棄権、62、63年とマラソン は走っていないのです)

昭和64年1月(平成元年)天皇の崩御により東京マラソンは3月に延期となり参加資格も 3時間以内に緩和されたのです。しかし、これでも出れない、資格がない状態で東京への参加 の機会はないのかなと思い悔しい時期でした。しかし、神様(?)はマラソンもう1度の機会 を与えてくれたのです。〔実際には東京1回、河口湖2回で打ち止めになっています〕

平成元年9月になり足の状態は思いのほかよくなり、徐々に距離を伸ばすことが出来るようになりました。「河口湖で資格を取り東京出場だ」の 思いも強くなり河口湖を丁寧に走り2時間34分39秒(参加資格35分以内)、東京は 厳しい途中の関門を全て通過し2時間36分57秒(ゴール関門40分以内)でギリギリ 念願が叶いました。

東京でのレース展開は関門規制、出場選手のレベルよりかなり厳しく、25kmまでにエネルギーを 遣い果たしたようなレースでしたが、アトミクラブの選手の他多くのランニング仲間でのグループ による前半の関門通過、また、多くの仲間・友人からの応援・妻の応援により地元東京でのレース を味わいました。

ちなみに、この大会のタイトルは凄いの一言、私もこの大会に出場したのだ! 「' 9 0東京国際マラソン兼北京アジア競技大会マラソン選手選考会兼第3回世界陸上競 技選手権大会マラソン選手選考会」…………どうですかこの迫力 このような状態で福岡国際マラソンへの選手での参加は夢の夢になったしだいです。

○私にとって最高のレースは別府?防府?

答えは簡単、自己最高タイムの防府マラソンより5回出場した別府大分毎日マラソンで す。

別府は3回目己記録を更新することができました。でも本当はもう1回記録更新の可 能性があったのです。結論は父の死去(昭和58年1月19日)に伴い、2月の第一日曜 日に実施される大会への出場が出来なかったのです。もちろん申込み、宿、航空券の手配 が済んでいた状態での棄権でした。

昭和57年11月の河口湖では記録が上向きに転じ、年末年始の練習も万全 (休日中は1日30km以上の練習、河辺から奥多摩往復コース約45kmを2回、 3時間05分と3時間00分)、数日前に再度奥多摩往復コースを2時間55分程度 で走り別府に向けての調整(私は3週間位前に奥多摩を走り、最後の2週間を 調整とし極く軽いランニングにしていました)に入るところでした。

父の死を聞いたとき「別府に行けない。残念だ。」との発言を家族にするなど不謹慎 さもありました。また、大会当日は自宅のテレビ前で残念さを呑み込みながら 次のレースを考えていたしだいです。

別府はレースに集中できるのです。2日前より家族と離れ、開会式、健康検査、調整練習、 一流選手を見れるとのこと。また、レース展開を考えどのようなベースでいくかを何回か 考え当日の朝、腕に5kmごとの通過予定タイムを記入するのです。この展開はどこの 大会でも出来るようで出来ないのです。

このようなことをやっているご褒美として昭和60年の大会では2時間31分03秒で 44位になりました。

    マラソンではただ1個のメダル:敢闘賞です。最初に別府に参加したときは50位までの ランナーが閉会式でメダルを授与されていたのを思い出し、どの大会の入賞楯・トロフィー より大切なものです。(飾ってあるのは東京電力の駅伝大会の優勝2回の楯とこのメダルのみです)

実は、このメダルはゴール直後にタオルと一緒のにもらい敢闘賞と判ったのは同行の粕谷さんが ゴールし控室に入ってからです。私が粕谷さんに「今回の大会はタオルと何か小さな物をくれたよね」 と言ったところ「タオルしか貰っていない」との返答です。

それでは何だろうということでバックの中から出し、箱を空けたところ敢闘賞のメダルだったのです。 自分もビックリしたのですが回りの選手も「すごいすごい!速いね」との祝福を戴き感激したものです。

過去のタイムから見れば敢闘賞のタイムとしては悪かったのでは思うのですが、後半は次々に順位を 上げたことから遠い選手のレース展開は厳しかったのかなと思っていますし、自分が考え抜いて記入 した腕への予定タイム(目標タイム)に自信を持ったものです。[目標タイムは直近の5000mの記録 と3ケ月間の走行距離より設定していました]

防府マラソンの2時間28分30秒については大会前後の故障からみれば奇跡かもしれ ません。大会当日の朝も厳しい状況だったのは変わりなく、回りのレース展開、天候、コ ースに感謝しつつ、実力を見極めたレース運びの大切さを実感しています。

参考にこの時の練習距離・調整内容を下表に示します。レース前月までの走行距離は過去より少なく内 容もLSD等の持久走を主体にしたものです。(スピード練習が出来ない状態でした)

[大会当日の記録]

昭和60年12月22日 防府マラソン 記録:2時間28分30秒

[大会までの月間走行距離]

 8月:427km
 9月:347km
10月:427km
11月:632km
12月1〜6日:86km
※練習は足を強く蹴ることが出来ず静かに足を運んだとの記憶があります

[大会までの練習メニュー]

15日前 12月 7日 奥多摩コース45km 3時間10分
14日前 12月 8日 15kmジョック
13日前 12月 9日 7kmジョック
12日前 12月10日 9000ぺ−ス+3000mフリー(9分53秒)
11日前 12月11日 7kmジョック
10日前 12月12日 8kmジョック
 9日前 12月13日 8kmジョック
 8日前 12月14日 15kmジョック
 7日前 12月15日 23kmLSD
 6日前 12月16日 8kmジョック
 5日前 12月17日 5000m(16分14秒)
 4日前 12月18日 8kmジョック
 3日前 12月19日 8kmジョック
 2日前 12月20日 12kmジョック・ハリ
 1日前 12月21日 12kmジョック
  当日 12月22日 朝:4kmジョック

4、あとがき(仲間と伴にそして仲間を利用し強くなる)

自分自身のことを、また、最近殆ど顔を出さない・走っていない者が長々と書きつづり 申し訳ありません。読んで頂いた方、本当にありがとうございます。

自分の記録としての書き方になりましたが「仲間がいればこそ」のマラソン・ランニング への係わりです。

自分自身の目標は高い方がいいと思いますし、その目標への取り組みが自己表現であると 思います。教える、教わるより自分で学び・考え・実行するがランニングでの記録向上の 基本であると今でも思っています。

記録向上だけがランニングではないことは十分承知していますが、自分の世界が広がることも 事実です。このなかで仲間との練習、語り合い、チームを編成してのレース出場を組み合わせ ることで自分を高いレベルへと導くことが可能になるものと思います。

私の記録は競技ランナーとしては下に位置していました。でも、この位置が自分にピッタリ であったようにも思っていました。

競技能力は低いが努力は報われる。このような位置です。練習で疲れたといい妻には 足・背中・腰・肩等のマッサージを毎日のようにお願いし(妻は一時期腱鞘炎になりました)、 記録はそれほどではない、練習時間も長くなる、一般ランナーの中級者(このような言葉あったかな??) との表現がピッタリとの自分への表現もあります。

でも、私は競技ランナーとして位置づけ、より高いステージで自己表現をしようと心掛けてきました。 当然、今は別の考えで走ることを楽しみたいと思っています。

私はアトミクラブでの出会いにより楽しくマラソンを行うことが出来ましたし、これか らもランニング外でもお付き合いしていただける(と思っている)人が多くいます。

会社生活では味わえない、また、ランニングをしなかったら味わえないアトミクラブでの 練習会、合宿、駅伝、飲み会、メンバーの結婚等々全ての繋がりに乾杯をします。

平成10年4月12日


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