アトミクラブ
1992年12月福岡…2時間20分を切るまで
33歳♂O型 アトミクラブ15年生
山川 寛 さん

1992年12月6日

 この日、福岡国際マラソンで、2時間19分34秒が出た。「出た」というのは、ランナーとしてはお粗末。

 28歳、3回目のフル。初マラソンならいざ知らず、スタート前に具体的なターゲットが見えていなかった。

 2週間前の府中多摩川20kmでは1時間5分台と調子が出なかったが、1週間前のつくば10kmでは 30分39秒と、絶好調だった2年前とほぼ同じタイム。調子が上がってきてはいることは確かであったが、 故障で夏場に思うように走れなかったことから不安は残る。

 自分の力を正確にチェックできていなかったわけであるが、「もしかしたら…」の期待も渦巻く。

 前年は福岡にエントリーするも、レース2週間前にして膝の故障で出場断念。無事に福岡のスタートラインに立てることを願ってきたこの 1年間、平和台の競技場に飛び出したときには本当に涙が出た。

<1986年夏>

 柳原さんや粕谷さんに、「ぜひ来てみろよ」と言われ、アトミクラブを見に行った。 夕闇せまる千駄ヶ谷、若きも老いも(失礼)、東京体育館の300mトラックで インターバルをやっている。

 飛び散る汗がナイター照明に光るさまは、まるで幻影を見ているようだった。

 次の週から練習に加わった。その日は、1000m×7本。山口さん、師岡さんがトップを行く。

 ハイペースこのうえない。ここで1年やったら、すごく強くなれることは容易に想像がついた。

 この日は3本目でふくらはぎがピクピクしてトラックにひっくり返ってボクの練習は終わった。 帰りに「むらさき」で皆でビールを飲むのが恒例のようだった。

 トレーニングを終え、疲労困憊であるはずのところ、若きよりも老いの方が(これまた失礼)、 むしろ生き生きとしている。本当の若さだ。

 ボクみたいなヒヨッ子でも話の相手になってくれる。トレーニングをこなした以上の充足感。 ああ、ボクは多分、この先、ずっと走り続けていくんだろうな」と思った。カルチャーショックを受けた 1日。19歳、ボクのランニングライフの最も大きな転機である。

<1989年春>

 トレーニングの質が(どちらかというとマラソン向きに)大きく変わったのはこの時(23歳)である。

 それまでは、夕方だけのトレーニングであったものを、朝12km、夕方17kmのロードを中心にした ことが、結果として距離に対する感覚を根本的に変えた。

 このときは、別にマラソンを意識したわけではない。ただ言えるのは、社内の研修期間中であったため 残業も何もなかったこと、その代わり多摩川が近くにあったこと、数ヶ月後にシドニーで行われる ロードレース(City to Surf 14km)の東京都代表になったこと、走るのに御膳立 てられた環境の中にいて、さらに、やる気にさせる目標ができれば、当然、朝も夕もと言うのは人情である。

 トレーニングの効果はてき面、夏から秋のロードレースはおもしろいように走ることができ、勝つことが できた。

 しかしである。60キロあったウェイトが、最低で52キロまで墜ちた。ダイエットをやったわけでは ないが、もともと暑さには強い方で、30℃を越す中でもバンバン走る。

 9月までの絶好調が10月になると陰りを見せだし、11月になると全く駄目。理由は案の定、 極度の貧血、ヘマトクリット値が普通の人の半分にも満たない。復活まで一時停滞。

<1990年春〜>

 貧血が完治、この際ということで、ついでにヘルニア(腸が飛び出す方)の手術を4月に決行。

 手術翌日からトレーニング(?)開始。病院の階段を何段も登って屋上から神宮の森を眺める。

 研修も終わり、ちゃんとした仕事に復帰、原宿に居を構える(といってもチョンガー寮)。

 神宮外苑、東宮御所、代々木公園と、走る場所には事欠かない。この時からのトレーニング内容が、 結果として2時間20分を切らせたと思っている。朝は5時40分頃から神宮外苑を5〜10周するか、 東宮御所を2〜3周、若しくは代々木公園で6時半頃まで(5月頃はカラスの襲撃に注意)。

 ペースはなるべく速くを心がけ、キロ4分はかかっていない。昼はやらない(打ち合わせが長引いたり、 午後の仕事に差し支えたりするため)。

 会社を8時から9時に出て、帰宅後、9時から10時にトレーニングを開始する。大体、1時間半後に 寮に戻り、風呂(もうぬるい)、夕食(まかないさんにキープしてもらっていた)の順番で、 寝るのは12時過ぎ(ああ、不健康な生活)。

 昼食から夕食の間隔が長いが、この方が脂肪をエネルギーに転換する能力が高まるとかで、 ルソー(走る方)も朝はそうらしい。

 夕方(夜)のトレーニングパターンは以下の通り。

1.絵画館周回の場合(1周1325m)
1−a.7周〜15周の持久走(10km〜20km)…週に3回ぐらい
1−b.400m(100m)×10〜25本のインターバル…月に2回ぐらい
1−c.1000m(325m)×3〜5本のレペテイション…月に2回ぐらい


PS.夏の野球シーズンは、ゲーム終了後にぶちあたると、球場から人が溢れ出てくるので、インターバルを予定していても東宮御所へと場所変更を余   儀なくされる確率大。

2.東宮御所周回の場合(1周3300m)
 2−a.3周〜5周のスピードプレイ※…週に1回ぐらい

※青山1丁目の交差点から左回りにスタート、虎屋の角まで下りをハイペース、 少しペースダウンして登りに備える。登りは誰でも頑張れるので、登り切ってからの 平地をペースを落とさないように気をつける。 左に折れる角でちょっと一息いれ、すぐに始まる急な下りを軽快にとばし、 たけしがバイクで転んだ坂を一気に駆け上がる。

 平坦になったあとも外苑東通りの交差点までペースを維持。 外苑東通り沿いは大きなフォームを心がけてリラックス しながらも軽快なペースで。これをスピードプレイと称しています(厳密な意味では違うのかも)。

 2−b.3周〜5周ジョグ…週に2回ぐらい

 PS.坂を無灯火で下ってくる自転車に注意

3.代々木公園の場合…夜は恐いのでこの頃はあまり行かなかった

 PS.夏場は花火の襲撃に遭遇するかもしれない。

4.アトミクラブの場合

 2〜3週に1回ぐらいしか参加できず、疲労困憊状態であったことが多かったが、 一人でトレーニングを続けるために必要なモチベーションをキープするという意味で、 とても重要な場であった(最近の成績不振の原因はクラブへの出席率の低下が原因)。

 仕事は机上が多く、精神的に滅入ることもしばしば。夜、地下鉄の階段を登る足取りも本当に重く、 「今日、これから走るなんて信じられない!」と思いつつも、しょうがなく外に飛び出す。

 飛び出すと、あら不思議、先程までの憂鬱はどこへやら、今日のトレーニングをこなしたも同然だ。

 仕事の関係上、出張が多い。神戸、仙台、日立、渋川、etc... たまに、札幌、福岡がある。 ひと月のうち、多いときで1/2、少なくても5日くらいは出張があり、泊まりがけも多い。

 そんなときは、朝おもいっきり早起きして、前夜のうちに調べておいた観光地巡りに精を出すことに している(これも最初のうちだけで、最近は神戸であれば、六甲山、ポートアイランドがお決まりのコース)。

 こうしたトレーニングパターンは、1990年春から1992年秋まで基本的に変わっていない。 参考になるかどうか疑問であるが、福岡までの軌跡は以下のとおり。

1990年
 6月 多摩川堤マラソン2位、富里スイカロード16km3位
 8月 士別ハーフ 1時間8分49秒(8位)
    (レース直後からアキレス腱アウト、
     8月後半ジョグ開始。その間、腹筋欠かさず。)
 9月 勤労者陸上5000m15’27”(炎暑)
10月 新潟マラソンハーフ 1時間05分07秒
    品川区5000m 14’55”
11月 ANA国際パリ駅伝(7.1km20’16”)東京都代表
    つくば10km 30’37”
12月 群馬ハーフ 1時間05分38秒、関東10マイル優勝

1991年
 2月 別府大分毎日マラソン 2時間22分36秒

 初マラソン。前日に40度の熱。山本さんの介抱で翌日には熱は下がるも昨夜からイチゴ1パック しか食べていない。スタートで転倒、踏みつけられるも、これから先は長丁場。 駄目でもともと、タイムを気にせず体調と相談して走った。

1991年
 4月 日本平桜マラソン10km  29’58”(未公認)
    品川区5000m 15’09”(3位)
 5月 全国勤労青少年10マイルロードレース大会 優勝
 6月 クラブ対抗5000m 15’00”(1位)
    日体大記録会5000m 14’56”
    東京陸協記録会 5000m 14’59”
 7月 都下選5000m 15’00”(1位)
    東京陸協記録会5000m 15’10”
    福岡国際マラソンコース試走(出張の折)
 8月 上高地60kmランニング(新島々〜徳本峠〜上高地〜新島々)
 9月 余市味覚マラソン20km 1゜05’26(優勝)出張の折
10月 新潟マラソンハーフ 1時間09分41秒
11月 福生ロードレース10km 31’26”(1位)
    日体大記録会10000m 30分26秒
    レース翌日から膝アウト、福岡断念、12月中旬からジョグ開始。

1992年
 1月 サンスポ千葉ハーフ 1時間10分59秒
    東京シティハーフ  1時間07分58秒
1992年
 3月 びわ湖毎日マラソン 2゜24’37”

 この後、膝を故障。スロージョグだけは続ける。8月後半に治るも、ブランクのため ジョグに終わることが多かった。1月から10月までのトレーニング記録は無い。 多分、記録をつけるのがいやになっていたのかもしれない。

 この時の記録こそが大事だったのに、ああもったいない。しかし、福岡だけは常に頭の中にあり、 空回りであるかもしれなかったが、気持ちの切れるのを防いでくれていた。

10月 新潟マラソンハーフ 1時間12分台(こりゃやばいと奮起)
11月 支笏湖1周(55km位)札幌出張の折
    府中多摩川20km 1時間5分台(ちょっとやばい)
    つくば10km 30’39”(おっ、いけるかも?)
12月 福岡国際マラソン 2時間19分34秒(30位)

<ふたたび1992年12月6日>

 41km表示。山本さんが何か叫んでいる。良く聞き取れない。時計はまだ2時間15分台で パタパタしている。

 残り1kmと200m、今のペースなら5分はかからないはず、もしやしたら20分を…、それとも ギリギリか? サブ20分を意識したのはこの時。期待と不安が沿道の声援でゴチャゴチャになる。

 最後の直線道路に入る。福岡城のお濠も目に入らない。小雨で冷えた身体を意識して精一杯動かす。

 ラスト600m。2時間前に軽やかではあるが不安と緊張で駆け下っていった競技場入口からの坂を、 今度は喘ぐようにして登る。さすがにここまで来ると、脚が思うように上がらない。

 トラックに入る。20分を切れると思った。テレビカメラがこっちを向いている(ような気がした)。 レンズ越しにアトミのみんなが見てくれている(ような気もした)。

 そんな中でゴール。冷え切った身体にタオルをかけてもらう。幸福感が充満して不思議と暖かい。 「一人の力じゃないんだ」と、ボクらしくもなく(?)、優しい素直な気持ちになる。

 不思議だ。アトミに出会わなければ、このマラソンに出ていたかどうかわからない。アトミクラブ の素晴らしい人達に出会っていなかったら…と思うと、ちょっとゾッとする。

<1998年3月>

 福岡からもはや5年。残念ながら記録の更新はなっていない。しかし、走ることは以前にも増して 楽しんでいると思う。人にはそれぞれ違った目標、違った達成感がある。

 フルで20分を切ったといっても、トップの選手から見れば「10分遅い」ということになる。 僕自身、これまでに何度かフルマラソンを走っているが、(恥ずかしながら)タイムをあまり気 にしていない。

作戦というものも厳密には立てず、ペースなどはレース展開次第の「お任せ」である(フルマラソンを 難しく考えず、なめているきらいもあるので、自分のことながら困ったもんだと思う)。

 福岡以来、レースに対する情熱が以前よりも失せていることも、タイム更新のならない原因。 ということで、今年は水曜日の練習の出席率を上げ、周りの熱気を吸収し、 あのときの情熱を再燃させたい。


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